神社は朝鮮半島から来たの? その5
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量が多いのでかなりとばしますが興味がある人は本で読んで下さい。
長野の「高句麗」
とにかく、文献とそういう考古学的事実とがピタッと一致するところ、これは畿内のほうでもいろいろありますけれども、それがいちばん一致するのが長野県なのです。これは驚くべきことです。
ここは全体として高句麗系のものが非常に強いところです。たとえば、上田市の近くにも駒形神社だと、いろいろありますが、JR線に篠ノ井という駅があります。この篠ノ井はどこから来たか。・・・・・
名字は、朝鮮人は二百いくつしかありません。中国人もそんなにないそうです。しかし、日本人の姓は数十万です。・・・時々、とてつもない名字をみることがあります。全くあれが名字かいなと思うのもあります。これは、基本的には地名から出たものです。
朝鮮も今は金さん、朴さん、李さんとなりますけれども、昔は、たとえば「日本書紀」を見ましても、百済が滅びてやってきた人の中に、鬼室集斯とか沙宅紹明とか、二字姓になっている。これはもとはみな地名です。沙宅というところが、今でも全羅道にあります。地名が姓の始まりです。中国の影響を受けて、朝鮮は一字姓の金さん、李さん、朴さんとなりますが、しかし、全体がそういう姓をもつようになるのは、本当は高麗時代になってからです。
日本では、いわゆる士族以外はみな姓がなかったわけです。・・・・・だいたい地名から始まるわけです。
地名はその歴史の化石であるという言葉があります。・・・谷川健一さんが主宰している日本地名研究所が川崎にありますが、京都にも今度、地名研究所がができたそうです。古い地名を保存する。地名は歴史の化石ですから、非常に大事なんです。
・・・ある時、松本かどこかの古本屋に入ったら、・・・・の「近世信濃文化史」という本がありました。
・・・「信濃二千六百年史」で栗岩氏は、「積石塚とは封土の代わりに石塊を用いて高く築きあげた塚のことであって・・・・明治末年師であった鳥居博士から・・・方面の高句麗の古郡一帯の古墳が皆積石塚であることを聞いた時に、我らの故郷にも三韓中の最奥地方の文化が流れているのを・・・」
どうして、朝鮮半島北部のものが信濃にあるのか、と奇異の感をもったというのです。だれでももちます。ぼくももちました。そして、つづけてこうあります。
「・・・南北四里内外、更科、高井両群にわたって、実に一千箇に近いものを数え得るのである。殊にその中央部にあたる更科郡北端の大室集落の如きは現在百戸内外の集落地籍に二百六十内外の存在を数えるのである。」
と述べているが、この積石塚の分布は南は小県、北は下高井郡の瑞穂におよび、さらに西は上水内郡の旭山、?山から下水内郡の長峯丘陵に及んでいる。これらについては、記録には何も伝えられていないから分明を欠くが、相当多数の帰化人のおったことだけは否定することはできない。
・・・長野市、飯山市、須坂市、中野市、更埴市、上田市などとなっている。そこに千以上を数える高句麗系の積石塚古墳がある、というわけです。
いま松本市に須々岐神社があります。松本市が長野県の中心であるか、あるいは長野市が中心であるか、いろいろな議論がありまして、今でも松本が信濃国の中心地であったという意見が濃厚です。なぜかというと、長野は善光寺によって開かれた町で、これは百済系です。後から来た者たちの、その門前町として開かれたのが長野市です。それから、須々岐は同時に鈴木でもあるわけです。・・・
平安時代に入ると、日本の朝廷が安定した。安泰となったために、自分たちは日本人になる、そのために日本人らしい姓をたまわりたいと天皇に願い出たわけです。それでそういう姓をもらったという記録です。・・・しかし、姓をもらったりするのは、選ばれた連中、いわば支配層の人々です。下層の人々は全く姓がない。姓のない人はもっとたくさんいたはずです。
これを読んで、ぼくらはどういうことを考えるか。一、続日本書紀 延暦八年とは、西暦789年であり、二、日本後紀 延暦十六年は797年であり、三、日本後紀 延暦十八年は実に799年であります。これでわれわれがわかることは、篠ノ井は高句麗から渡来していた前部秋足等の改姓名であり、その居住地であったということである。
799年というと、平安時代です。・・・それまで高句麗から来た人々は、つまり平安時代まで下部とか前部とか後部とか、高句麗にあった官職名を姓にしていた。かれらはみな向こうの貴族だった。それを姓にしていたということです。これは驚くべきことです。
なぜ驚くべきことかというと、高句麗は668年に滅びています。伽耶は562年に、真っ先に滅びますけれども、次は百済が滅びます。・・・朝鮮にはもう高句麗はないんです。統一新羅しかない。・・・・・にもかかわらず、彼らは日本の屋根といわれる信濃国に住んで、しかも799年に至るまで、高句麗の官職名を彼らの姓にしていたという事実を、皆さんはどう思いますか。
つまり、極端にいうと、信濃国は高句麗国だったんです。朝鮮では、もうとっくに高句麗はないんです。にもかかわらず、信濃では高句麗がまだ生きていたわけです。そしてそれがたくさんの古墳をつくり、それを残しているのです。彼らが五世紀からそこに住んでいたという事実は、驚くべきことです。
また、これがどうひろがっていくかといいますと、甲斐、山梨のほうに広がっていきます。山梨県には北巨摩郡、中巨摩郡、南巨摩郡がありますが、これはみなそうです。
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「恐ろしくなった」-これはどういう意味かおわかりでしょう。文献を見たら、奈良の都はもう終わって、京都に都は移っているわけです。その時まで、甲斐国だけでも190人からの百済人が、自分たちの故国の、つまり朝鮮半島における姓や官職名をそのまま使っていた。これは山梨だけではありません。全国至るところ同じです。森浩一さんが恐ろしくなったというのは、そういう意味です。
東京・埼玉の「高句麗」
駿河は静岡県、甲斐は山梨県、上総、下総は千葉県、常陸は茨城県、下野は栃木県です。・・・ここにいた高麗人1799人をもって高麗郡をつくった。・・・平野だけは恵まれていますけれども、荒無地です。そこを開拓するために、駿河や甲斐などに住んでいた高麗人を集めたわけです。
これは今来、あとから来た者たちなんです。・・・
弥生時代以来、だんだんと人口が増えて、国家ができて、許可を得ないでは勝手にいけない。初めきたものはどこにでも住んで、おれの土地だといえば、それまでだった。勝手に住んだわけです。ところが、今度は朝廷から統制される。それであちこちに配置されたのです。
ところが、先に来た新羅系、百済系、高句麗系はほぼ日本人化しているんです。もう数百年たっていますから、土着化して、いわば、日本人になっている。
その土着化した者と、あとから来た者とが悶着を起こしてしようがない。そこで、あとから来た者を一箇所に集めて、おまえらはここへ行って開拓しろということで、高麗郡が置かれたのです。そして、それの指導者として、誰を選んだかというと、さきほどの大磯を中心にしていた若光を連れてきて、高麗郡大領にした。つまり、郡長にしたわけです。この人はなかなか人徳のある人だったらしいです。・・・
九州の「朝鮮」
・・・高句麗系の渡来人に的を絞ってみただけで、こうなるんです。そこへ更に新羅系だ、百済系だ、伽耶系だといことになりますと、これはもう大変です。
つむじ曲がりがいて、稲作は中国の江南からだとかいう。そうかもしれませんが、そうだったとしても、それはまず朝鮮に入って、それが変容してこちらへ入ってくる。なぜならば、朝鮮は、その遺跡から、西暦紀元前7、8世紀には稲作が行われていたことが明らかです。
日本の場合には、紀元前二百年の弥生時代からです。数百年の差がある。そうすると、別に不思議ではない。入ってくることは自然なんです。
・・・須恵器というのがあります。須恵器は朝鮮から工人が来てつくった。それも皇国史観でいうと、捕虜かなにかとして連れてこられたことになっていますが、そんなことはありません。
それから、・・・九州などで出土する伽耶製の土器のことを陶質土器といっています。豪族に随伴してきた工人がこちらに来て土器をつくりますけれども、それらが来る時に持ってきたものなんです。
・・・北部九州というのは、古代朝鮮からみると、まるで朝鮮そのものです。
知名なんかもそうです。加也山とか、あるいは芥屋(けや)というのがある。これは伽耶です。・・・それからまた熊本に行きましたら、年をとった人は「はい」ということを「ネー」と言うんだそうです。「ネー」というのは朝鮮語の「はい」ということです。・・・
それから鹿児島に行くと、ふるいのことを「チェ」と言う。これも朝鮮語そのものです。びっくりしました。こういう具合に、九州はとくに、朝鮮が非常に濃厚に残っています。
日本人の祖先考
日本の原始・古代は縄文時代、弥生時代、古墳時代と続きます。それで、縄文人こそは日本人の祖先であると、よく言われます。弥生時代以後は、みな朝鮮渡来がいやだとすると、先ほどみた高麗郡の加藤さんや阿部さんなんか、どうしたらいいか、わからなくなります。そういう論理でいくと、これは高句麗系の渡来だということがはっきりしているのです。
ところで、その縄文時代は人口がどのくらいあったと思いますか。日本人類学界がおととし百周年を迎えて、それを記念した「人類学」という大判の本が出ました。・・・池田次郎氏の「日本人起源論の100年」をみると、そのことがこう書かれています。
・・・・・要するに、先住民の縄文人であるアイヌは、日本人の直接の先祖ではないといってるわけですが、だいたい、縄文時代の縄文人というのは、この日本列島にどれくらいいたのか。・・・
そして、最も最新の方法を駆使した小山さんの調査結果をみると、弥生時代まで八千年続いた縄文時代の総人口は、中期が二十六万一千三百と一番多く、それが晩期になると、新たな寒冷の気候のため、七万五千八百になっています。・・・
それだ弥生時代になると、日本の人口は急に五十九万四千九百になります。・・・鳥居龍蔵がいったように「朝鮮半島から弥生文化とともに」たくさんの渡来があったからです。その渡来は古墳時代とともにさらにどんどん増えて、奈良時代には六百万近くになります。こんなふうに、人口のうえでも歴史的な交替があった。
われわれはこのような人口の推移という角度からも、学際というんでしょうか、あるいは考古学、あるいは文献ばかりではなしに、人類学のほうからも総合して見ると、古代のことがよくわかると思います。
人種と民族
・・・渡来人をみんな「帰化人」にしてしまっている。帰化というのはそこに国があって、そこの戸籍に編貫されることを言うわけです。弥生時代からかれらがやってきて、国家をつくったのです。それを帰化人というのは何としてもおかしいわけです。
よく「新撰姓氏録」が持ち出されます。それをみると、帰化人が約三分の二だと、学者がいいます。というのは、神別、皇別、諸審となっていて、三分の二は諸審です。これだけみても渡来人のほうが多いわけですが、これが学者たちのいう「帰化人」です。神別というのは神様。それから出て、天皇になったものが皇別。それならば、この神様はどこから来たのですか。天から降ったわけでも地からわいたわけでもない。田名部雄一氏の「犬から探る古代日本人の謎」をみるとそのことがこう書かれています。
”万多親王の作った「新撰姓氏録」(815)によれば、そのころ存在していた氏は、皇別、神別、諸審(渡来人)に分けられ、氏の三分の二は渡来人が占めている。このことは、氏のある支配層がほとんど渡来人で占められていたことを示している。しかもこのとき渡来人のものと区別された以外の三分の一を占める氏も、おそらくごく早い時期の渡来人(弥生人)の子孫のものであり、縄文人の子孫ではないと推定される”
要するに、それらが日本人、日本民族となったのです。民族は、その風土における歴史的時間の積み重ねによって形成されるもので、初めからあったのではない。われわれはそのように変容したものにすぎないのです。
日本の中の高句麗文化を見ましても、ちょうど同じことが言えます。先ほどいいましたように、高麗神社ひとつ見ましても、高麗氏から出た阿部さんや加藤さん、吉川さんや金子さん、これは完全な日本人です。もちろん、高麗さんもそうです。そういう具合に考えるべきであって、皇国史観みたいに初めから大和民族があって、どうのこうのというものではないということです。 (1987年6月24日)
つづく