神社は朝鮮半島から来たの? その4
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「日本の中の高句麗文化」
「高麗(こま)」のもつ意味
日本の中の高句麗文化ということですが、高句麗の場合、いや、朝鮮半島全体にしましても、もともとツングースとか、北から移ってきたものです。「三国史記」の「新羅本紀」などを見ましても、やはり、高句麗から来ているのです。伽耶にしてもそうですし、百済ももちろんです。ですから、高句麗は非常に基本的なものになっているわけです。
李朝の前、十世紀から始まる統一新羅以後の高麗時代が約五百年近く続きます。・・・・・古代日本では高句麗のことを高麗(こま)といい、それが後には朝鮮全体をさす名称ともなりました。高麗というのは非常に重要な意味を持っています。たとえば、神社に行きますと・・・・・コマ犬がいます。だいたいみな「狛」という字を当てておりますけれども、地方に行きますと「高麗犬」と書いているところもあります。・・・・・そこでまずコマということですが、コマのもとはクマです。クマは、高句麗ばかりではなく、古代韓国のトーテムといいましょうか、朝鮮に檀君神話というものがある。これは日本の天孫降臨神話とも非常に関係があります。簡単にいいますと、これも天から降りてくるというこういうものです。
・・・・それで、熊は聖なるものということになり、これは日本語では熊というのですが、朝鮮語ではコム(熊)といいます。そして、このコムはなまって日本の神様のカム(神)になります。神様という言葉がこれからきているわけです。現代表記ではカミですけれども、本当はカムなんです。だから、「かんながらの道」と言いますが。本当は「かむながらの道」です。
日本には熊野とか熊野神社というのがあちこちにありますね。有名なのは伊勢の向こうの三重県に熊野があります。この野は、古代ではヌと読んだ。そして、これは中島利一郎さんの「日本地名学研究」によりますと、古代日本では野は国土という意味も持ったそうです。そうだとすると、熊野はコムナラ、カムの国ということにもなるわけです。
朝鮮でもこのコムはカムとなり、カムナム、すなわち「神の木」ということにもなる。大木に神様が依りつくというのは、今でもありますね。そして、この神の木が日本語ではカムナビ(神奈備)になる。つまり神体山になるわけです。大和の三輪三山はご承知のように、本殿がなくて、裏の三輪山が神体になっています。これをカムナビといいます。これはカムナムから来ているのです。
神社は、いま朝鮮ではほとんどなくなりましたが、ダンモク(堂木)というのが残っています。神の依代としてのこれは、まだ残っています。みなさんは韓国の慶州に行かれて、感恩寺に行ったことがある方があるかもしれませんが、廃寺の跡に大きな石塔が立っています。有名な海中稜のある近くです。感恩寺は以前は神国寺といって、その名残の大きな木が一本立っています。これは日本語では槐で、朝鮮語ではキモクという堂木です。そこにしめ縄が張られています。これが朝鮮における神社の名残です。つまり、これがカムナム、神の木です。日本でいう神の依代です。
日本全国に分布する「高句麗」
こういうふうに高句麗のクマだけでも、日本の神話、日本の神宮を考える場合、非常に大きな意味を持っているのです。
高句麗は日本全国至るところに分布しています。・・・北九州に高句麗ということだった「高麗」というろころがあり、また「百済」や「新羅」もあった。「加耶」もありますけれども、加耶は非常に早くやってきたので、新羅の影に隠れるようになります。
・・・・・高句麗文化はいちばん濃厚なのはやはり畿内です。その次が関東、甲信越となります。畿内ではまず河内、河内は北河内、中河内、南河内とありますけれども、北河内、つまり今の枚方市あたりはみんな百済です。近くに秦というところがあって、新羅・加耶系も混じっていますが、こちらの百済は660年に百済が滅んでからやってきた人たちが住んだところです。
中河内はほとんどみな高句麗です・・・
次は京都、つまり山城国です。・・・木津川は、「日本書紀」の崇神天皇の条で見ると、もとは輪韓(わから)川です。輪は接頭語ですから、韓川です。これはまた山代川ともなっています。
・・・これが大和から京都に向かってきて、それが北上して、・・・東山山麓にある法観寺、八坂寺となり、そして八坂神社となります。八坂神社は全国に分社もたくさんありますけれども、まず思い出されるのは日本三大祭の一つといわれる祇園祭です。その神社の近くに、いまも八坂寺の塔が残っています。
・・・由緒書きというのはほとんどみな、マユツバですよ。・・・しかし、よく見るとおもしろいんです。「文は人なり」という言葉がありますけれども、・・・ごまかしても、どこかチョロッと本音が出る。・・・・
それで、必ずもらってみることにしますが、八坂神社に行ったときももらいました。そしたら、その由緒書きにこう書いてあるんです。
・・・略・・・
さらに、林屋辰三郎さんの岩波新書の「京都」という本にはこう書かれています。
・・・略・・・
簡単にいいますと、八坂神社の初めは、高句麗から来た氏族の祖神を祭った。・・・祇園祭も、最初は高句麗系渡来氏族によるその神社の祭りから始まったものです。このように、東の八坂神社は高句麗系で、西のほうは新羅系です。京都というところは非常におもしろいところで、百済系ももちろんあります。のちには今来の神も入ってきます。平野神社なんかがそうです。
このように関西にも高句麗系など、古代朝鮮から渡来したものたちが残した遺跡が色濃く残っていますが、これはどちらから来たかというと・・・いちばん大きな入り口は九州の博多湾です。もう一つは北陸の敦賀湾です。もちろん、それだけではありませんけれども、畿内あたりに展開した高句麗系渡来人、この二つの湾から入ったものもありますが、どちらかというと、北陸の日本海沿岸から入ったもののほうが多いように思われます。たとえば、新潟沿岸からあたりからもたくさん入ってきています。潮流の関係でそうなったようです。
ぼくはずっと全国を歩きながら、いちばん驚いたのは長野県です。長野県は日本の尾根といわれるところです。そこに、なんと高句麗の連中がたくさん来ている。しかも、非常に古くからです。
われわれは古墳遺跡を見る場合、考古学的事実、つまり古墳があって、・・・・・問題は、その古墳から何が出土するかということです。・・・・・
・・・ここでついでに言っておきますが、韓国のソウルで出ている六月二十八日付(1987年)「朝鮮日報」を見ると、「日本で韓半島型櫛目紋土器が大量に出土した」というんです。これはBC三千年のものだと大きく出ていますが、まだ日本の新聞には出ていません。
古代史を勉強するうえでは、大阪や九州で発行されている新聞を見ないと困ることがあるんです。たとえば、天皇家に関係あるものは、東京あたりでも新聞に大きく出ます。たとえば聖徳太子のことがこの前、大きく出ました。そういうふうに大きく出ますけれども、天皇家に関係ないものはあまり出ないんです。おそらく、これは九州の新聞に出たかと思いますが、何しろBC三千年ですから、今から五千年前です。そうすると、朝鮮の檀君というのも全くの神話と言い切れないということになります。いま韓国では論争が起こっています。檀君時代をどうみるか、・・・まだ続いているようです。
つづく