神社は朝鮮半島から来たの? その1
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旧「Earth Blue & Moon Cafe」
久しぶりの朝鮮半島です。
金達寿氏の
「日本の中の百済・高句麗・新羅」
「日本の中の高句麗文化」
「日本の中の天日槍」
より一部抜粋書き写しましたので、ご自分の判断でお読みください。
「日本の中の百済・高句麗・新羅」
日本と朝鮮とのつながり
・・・ところがそうではない。新井白石が言ってるように、上代のことは漢字にとらわれてはならない。音が大事なんです。朝鮮も新羅時代にできた「リト」がありまして、これは朝鮮語を書き表すために漢字を借りて用いていたものです。・・・万葉仮名が朝鮮のリトに当たるものです。万葉仮名は表音文字です。
任那については後でちょっとしゃべりたいと思いますが、加耶諸国のなかに安羅(あら)という国があったのです。日本では安羅と書いていますが、阿羅とも書きます。朝鮮の古代を理解していただくうえに、これは非常に重要な要素をなしています。
安羅は阿耶、阿那ともなります。これは同じ意味で、安羅とも言い、阿耶とも言い、阿那とも言うということです。これは日本の古代史を見るうえで、あるいは古代の地名などを見るうえで非常に大切なことですから、覚えておいて欲しいのです。
羅、耶、那というのはどういう意味かといいますと、朝鮮語の国土という意味です。大国主命は大穴持命とも書きます。・・・大穴は阿那、つまり大きな国、大国主命と後に翻訳されるわけです。
滋賀県の近江の草津市に行きますと、穴村というところがあります。今は草津市穴ですが、昔は穴村と言ったんです。・・・・・ここに行きますと安羅神社というのがあります。今の若い人たちはヤスラ神社とも言ってますが、元はアラ(安羅)神社です。
*王仁三郎の穴太村を想起
この神社は、新羅の皇子とされている天日槍(あめのひぼこ)を祭る神社です。これは今でもはっきりそう書かれてあります。日本ではっきり書かれているのは珍しいのです。・・・・・
この安羅は阿羅ということです。だから近江に行くと穴太衆とか、高穴穂の宮というのがあります。吾名(あな)とか色々字を変えますが、そういう地名が近江にはたくさん残っています。
我々が日本の古代史を知るためには、加耶の国というのは非常に大きな要素になっていきます。
先ほど言った任那ですが、どうして「みまな」と読むのでしょうか。僕は子供のころから疑問に思ったのは、先ほどの神功皇后に出てきた王仁です。これをどうして「わに」と読むのですか。あるいは、百済をどうして「くだら」と読むか。日本語で「ひゃくさい」だし、朝鮮語では「パクチェ」です。どうして「くだら」と言うのか。
もっと卑近なところでは、石上玄一郎という作家がいまして、大和に石上神宮があります。これはどうして「いそのかみ」ですか。「いしがみ」か「いしうえ」でもいいのに。そのように任那がいったいどうして「みまな」かということです。
これは先ほどの鮎貝房之進氏の「雑考」にも出ているように、簡単にいいますと任那、那は先ほどの国土の意味だと言いましたが、任那の任は主、主君の国という意味です。
・・・今度は秦氏について見ましょう。大宝二年(702年)の戸籍台帳が残っていまして、それを見ると豊前の国の人口の9割以上が秦氏族です。・・・宇佐八幡宮、八幡信仰はここから起こりました。・・・
彼らが上陸した北部九州から、田川郡に行くと例の「月が出た」という三池炭鉱の歌で有名な香春(かわら)岳がありまして、そこに香春神社があります。これは新羅からみずから渡ってきたという女神を祭る神社です。
その女神が今度は宇佐にやってきます。香春岳と宇佐と密接な関係がありまして、香春岳の裏には「採銅所」というところが今でもあります。宇佐神宮の神鏡をつくったところです。その宇佐神宮は香春神社と同じ女神が中心です。あとから応神天皇と神宮皇后が併祭されます。
そこから国東半島に出てまいりまして・・・・・比売語曽神社というのがあるんです。これも宇佐神宮と同じ女神です。
そこからにわかに東転して瀬戸内海に入ってきます。・・・呉に亀山神社というのがありますが、これも同じ女神の神社です。
朝鮮から渡ってきた神社
そのようなことで調べてみると、日本の歴史が非常に面白くなってきたんです。こんな面白いものはない。
しかも三品彰英氏がはっきり書いているように、「古事記」「日本書紀」をちゃんと読むためには古代朝鮮語を知らないとだめです。はっきり言いますと、古代朝鮮語で書かれたものです。しかもよくみて見ると、佐久克明氏なども書いていますように、「古事記」は新羅系の渡来人によって書かれ、「日本書紀」は百済系の渡来人によって書かれたものです。
ですから、「古事記」を読んでみると、新羅に対する敵視はあまりないんです。ところが「日本書紀」を見るとがらりと変わります。新羅を蛮国視する。敵視するわけです。そして百済や高句麗はもはやないんです。・・・・・ところがこれが非常に正直なもので、・・・書紀の天智天皇段を開いてみてください。いかにも「日本書紀」は百済系の連中が書いたことがはっきりとわかります。・・・要するに天智朝と百済とは一体のものだったということです。
・・・・・
そういう経過をたどってくるのですが、・・・・「広辞苑」をみますと、ただし、第一版です。第二版ではどういうわけか、それを消しているんです。ぼくなんかがそれを引用したりするからということもあったかと思いますが、一版を見ますと、「韓神の祭り」というのがありまして、そこに上代において二月十一日に行われた宮内省の内にまつられてある韓神社の祭と書いてあります。
二月十一日がどういう日かご存知ですね。今は建国の日と言いますが、昔の紀元節です。つまり上代の二月十一日には、宮中で韓神の祭りが行われた。そればかり神楽というものがあります。宮中神楽です。宮中神楽でない神楽は里神楽と言います。宮中の神楽はどういう神事かといいますと、韓神を招く神事です。
「三島木綿肩(みしまゆう)にとりかけ、われ韓神の韓招(からお)ぎせむや、韓招ぎせむや」という韓神を祭る神事です。何がゆえに宮中で朝鮮の神様を祭るのですか。「延喜式」を見ますと、園韓神の社というのは三社あるんです。宮内省坐園韓神三座(くないしょうにますそのからかみさんざ)というのがそれですが、韓神は百済の神で、宮内省に二社あります。・・・文字から見ると、園というから公園の神様か、花壇の神様か、今の感覚では思っちゃいます。これは一語ではなくて「ソの」という二語です。
つまり新羅を昔はソラボル、ソヤブル、ソナブルと言ったし、ソブルとも言った。・・・ソウルは都という意味です。京都です。・・・・・ソというのは新羅の元号です。
このように新羅系の神であり、百済系の神が二座、宮中に祭られている。このことによって王朝の交代がわかります。中国や朝鮮では、こういう場合は消してしまうんです。日本は実に面白いです。神社もよく残っている。日本人はものの考え方が調和的ですから、捨てないのです。
ぼくは神社というものが嫌いだったんです。戦時中に強制参拝させられましたから。・・・・・ところが戦後になって日本の歴史をだんだん調べているうちに、なんとこの神社が朝鮮から来たものなんです。しかも新羅から来た。これにはまた驚きました。
「三国志」にはっきりと出ていますが、新羅の初代王を赫居世(ヒョクコセ)といい、赫は名で、居世は様というほどの尊称です。この王が亡くなって祖神廟ができたのが西暦紀元五年で、これが487年に「神宮」になります。前川明久氏の「伊勢神宮の祭祀制」をみると、「神宮の称号の起源は新羅の神宮に由来している」というその神宮です。
では、神社の社はどうかと言うと、これは「居世」という尊称からきたコソだったものです。
先ほど、比売許曽(ひめこそ)神社のことを言いましたが、そのコソです。つまり神社は社(こそ)です。伴信友がはっきり書いているように「神社とは古曽のこと」つまり社(やしろ)のことです。・・・・「社」は「こそ」です。社というのは名前ではなくて、尊称です。
そういうことで神社は朝鮮で始まったわけですが、仏教が入ってきます。日本人は物事の考え方が非常に調和的ですが、われわれ朝鮮人は悪く言うとあれかこれか主義で、対決的です。よく言えば論理的です。
そういうふうに神社や神宮は古代朝鮮から渡ってきて、しかも日本ですべて花ひらいている。そればかりかわれわれは今日古代史を知るために、仏閣はもちろんですが、神社が非常に役立っている。
つづく