資料「平群」
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平群
『古代の大和国平群郡平群郷の地である。古代豪族・平群氏の本拠地であり、平群神社、平群坐紀氏神社、平群石床神社などの延喜式内社が鎮座するのをはじめ、古墳64基が散在する。信貴山縁起絵巻で有名な信貴山朝護孫子寺も町域に属する。信貴山縁起絵巻で有名な信貴山朝護孫子寺も町域に属する。』
平群氏
『平群氏(へぐりし)は、武内宿禰の後裔と伝えられ、大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ。姓は臣(おみ)、後に朝臣。
『日本書紀』の所伝によると、応神朝から軍事氏族としての活躍が見え、履中朝に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになった。葛城氏没落後の雄略朝以降、木菟の子の真鳥(まとり)が「大臣」を歴任して一族の興隆を極めた。しかし、仁賢天皇の崩後、真鳥大臣は日本国王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにしたため、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられ、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺されたという(498年)。
これ以後、平群氏の氏人はしばらく『書紀』から姿を消すが、用明天皇2年(587年)の物部討伐将軍として神手(かみて)の名が見え、この頃までに大夫選任氏族としての地位を得ていた。同13年(684年)10月の八色の姓施行に伴い、改めて朝臣姓を賜る。奈良時代には広成などの官人を輩出したが、その後は没落した。』
平群神社(神奈備にようこそ!)
http://kamnavi.jp/as/ikoma/heguri.htm
祭神
大山祇神
由緒
『「延喜式」神名帳記載社。五座の祭神とある。武内宿禰が神功皇后とともに朝鮮出兵前に戦勝祈願として大山祇神をこの地に祀ったと伝わる。
平群氏の祖神を祀っていたと考えるのが自然である。平群の地域は興福寺の影響下に入り、春日神が持ち込まれているようで、 当社も春日大明神とも呼ばれていた。 当社の近くの三里古墳は紀ノ川流域に分布する石棚を有する古墳と同形式であること、 また椿井宮山古墳や烏土塚古墳との関連も考えられよう。平群氏と同族とされる紀氏の居住地であったようで、共に武内宿禰の末裔とされる。
『日本書紀』仁徳元年紀に、仁徳天皇が生まれた日、木菟(ミミヅク)が産屋に入り、また同日武内宿禰にも男子が生まれ、鷦鷯(ミソサザイ)が飛び込んできた。 この吉兆を交換して皇子を大鷦鷯尊、武内の子を木菟と名付けたとの説話が載っている。木菟宿禰は平群氏の祖である。
名前の取り替えの話は、応神天皇と笥飯(気比)大神との場合も応神天皇紀に出ている。 記紀に流れている万世一系の支配思想の構造は漫画であるが、それは書けないので、名前の交換などの表現をしたと考えるのが常識的だと思う。 鷦鷯(ミソサザイ)の名を持つ仁徳天皇の王朝と平群谷の平群木菟宿禰のコンビは、 やはり『日本書紀』で「小泊瀬稚鷦鷯天皇」即ち武烈天皇の即位前に武烈天皇は大伴金村と共に、平群真鳥・鮪を討つのである。 これ以降平群氏は衰亡していくのであるが、何故、鷦鷯が絡むのであろうか。
この平群の地を支配した平群氏の祖の木菟宿禰が大王の地位を外されたということだろう。それでか平群氏は平群はヘグリ、平郡、辺郡、大和の西北隅みの谷間の地に封じ込められたのであろうか。 この地には仁徳天皇の時代となる5世紀前半にまで遡る古墳がなかった地域であった。
後に紀氏が水運支配権の確保の為にこの地に拠点を設けるようになった。しかし紀氏の姿もいつの間にか消えてしまっているようだ。 古い古墳では墓標が出ることは希なようで、それよりは神社名や地名が多くの歴史を物語るようだ。 紀氏が居住した地域、紀の国の国魂である五十猛命三兄妹神が祀られていないだろうかと探してみるのであるが、平群神社の五座の祭神、現在が大山祇神一座である、神社もまた黙して語らない事がある。』
[平群坐紀氏神社]
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt0/n4knu01.htm
祭神:天照大神、都久宿禰、天児屋根、八幡大菩薩。
本殿:春日、西向
[平群石床神社]
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt0/n4iwt01.htm
祭神:饒速日命(劔刃石床別命)
右殿:太玉命、左殿:素盞嗚命本殿:南向、平入
境内摂社:七社神社、消渇神社しょうかち(東向、春日造)。
『消渇神社には、陰陽の土団子を12個作り備え満願の時米団子を納めるという風習が残る。境内の消渇へ登る入口に土団子をつくる用意、三方の上に練る為の土と小皿が用意してある。』
by mayufuru
| 2009-11-03 15:26