世界を支配する王 その26
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久しぶりの『ダライ・ラマの闇』です。
このシリーズは気持ち悪い内容なので初めてごらんになる方は気をつけてお読みください。
『ダライ・ラマの闇』
http://www.iivs.de/~iivs01311/SDLE/Contents.htm
yasuさん翻訳による7章の続きです。
7.カーラチャクラ:内部のプロセス
The Candali
Candali(チャンダリー)
カーラチャクラタントラは、ヒンズーのクンダリーニヨガとの多くの類似を示している。これら両方の秘密の教義は、ヨガ行者のエネルギー体、つまり彼の神秘的なチャンネルとチャクラが、自らのイニシエーションの火によって破壊されることを必要とする。錬金術の法であるsolve et coagole(「溶解し、再構築する」)がここでの金言となる。また西洋の神秘主義者の間でいう、灰からよみがえる不死鳥のシナリオも知られている。この「内部の火」が、時間タントラの女性の名前をもつことは、我々の研究において特別な関心となっている。いわゆるcandaliはもともと最も低いカーストの女子のことを指すが、サンスクリット語の語源からみると『激しい女性』(Cozort、1986、71ページ)の意味をもつ。チベット人は「candali」を『熱いもの』(Tum-mo)と訳し、タントラ名人の身体における、火のような力の源を意味する。
candaliはヒンズーの炎のヘビ(クンダリニー)の仏教の姉妹として現れ、ヨガ行者の最も低いチャクラに眠っているが、いったんそれが解放されるとそれは炎の中に跳ね上がってくる。しかし仏教においては、内部の「炎の女性」の破壊的な面は、その創造的な面よりはるかに強調されている。ヒンズークンダリニーが破壊的であるというのも事実だが、彼女は創造的な原理(shakti)としても最も高く崇拝されている:「彼女は世界の母であり、世界を永遠に孕んでいる。…世界の女性とクンダリーニは、偉大なマクロコスモスとミクロコスモスの同じ様相である:シャクティは神のように全ての形作るものを織り込み、そしてそれをあらわにする」(ジマー、1973、146ページ)。
クンダリニーを起こすために必要な身体の技術は、文化的な伝統の間で変化する。たとえば仏教のヨガ行者は、内部の火をへそで解放するが、ヒンズーでは肛門とペニスの付け根の間でなされる。candaliはその腹を燃え上がり、激しく踊りながら中央のエネルギーチャンネル(avadhuti)を登っていく。あるテキストは、彼女を「稲妻の火」、また別のものは「死の娘」と言う(スネルグローブ、1959、49ページ)。その段階ごとに「熱いもの」はすべての名人のチャクラを焼き尽くし、エネルギーセンターに相応する5つの元素は、燃えるような熱さの中で破壊される。下から始まって、最初に土が臍の領域で焼き尽くされ、心臓のチャクラで水に変わる。それから水はのどの火で焼き尽くされ崩壊する。額においてはcandaliの助けを借りて空気が火を飲み尽くし、頭頂ですべての元素が空のスペースに消えていく。同時にハスの中心と一致する五感と5つの感覚物が破壊される。こうして瞑想するブッダと彼のパートナーが各々のチャクラに居場所を得るが、これらも炎に屈する。Kalachakraタントラは、「集合体の非物質化」についてこう話している(Cozort、1986、130ページ)。
最終的にcandaliは、名人の小宇宙の中に住む神を含む、その全ての古いエネルギー体をむさぼる。我々は、タントラの宇宙が類似と異体同形の連鎖からなり、存在のすべてのレベルと関連していることを決して忘れてはならない。それゆえヨガ行者は彼の不完全な人体の破壊を行うことによって、同時に最高の意図をもって不完全な世界を破壊すると思っている。Lama Govindaは、この魅力的なマイクロ?マクロコスミックな黙示録の5つのステージを解説している:「第1の段階で、燃え上がる炎の中のsusumna(中央のチャンネル)は、髪のように細い毛細管を想像させる;第2では小指の厚みになり、第3では腕の厚みに、第4では全身と同じくらい幅広くなり、まるで体自体がsusumna(avadhuti)になったような一つの燃える血管に、そして第5の段階でそのシナリオはクライマックスに達する:体は瞑想者のために存在するのをやめ、全世界は火のようなsusumna―終りのない激しく荒れ狂う炎の海 ―になる」(ゴービンダ、1991、186)。
しかし一旦彼女がその花火のような作品を完成させるとき、candaliにはいったい何が起こるのだろう?彼女は、新しく創造された宇宙の中で、ヨガ行者と平等なパートナーとして参加するのだろうか? 真実は正反対である!彼女はタントラのステージから、まるで彼女の助けで破壊された元素のように姿を消す。彼女が頭のてっぺんまで全てのハスのセンター(チャクラ)を蒸発させるならば、彼女はそこに蓄えられているbodhicitta(男性の種)をも溶かす。これはその「水のような」性格のために「炎の女性」を消す力を備えている。彼女は、実際の現実における人間のカルマムドラーのように、ヨガ行者によって追放されるのである。
タントラマスター内部の身体のこの素晴らしい火山噴火に直面すれば、彼女をして彼にcandaliに火をつける力を与えた、その魔法が意味するものが何かを尋ねないわけにはいかない。いくつかのタントラは彼女のたぎるような性的貪欲を候補に挙げている。Hevajraタントラは、「情熱の火」ついて話している。もう一つのテキストでは、「kamicな火」についてはっきりと言及している。この語は性的な喜びを代表するヒンズー神Kamaにあたる。タントラのマニュアルでは、実際の愛の行為に対応して「性交の間、Candaliは振動し、大きな熱が起こる」とされる。
性的な行為と火の儀式の同一視は、ベーダにもそれを見ることができ、タントラ仏教によっても後に採用されている。そこでは女性が犠牲の火として語られ、「犠牲の木としての彼女の下の部分、炎としての陰部、墨としての貫通と、火の粉としての結合」(バタチャリア、1982、124ページ)として語られている。ベーダの言葉の視点からは、世界は火の犠牲なしで存在し続けることができないが、「火の提供は、女のメッセンジャーdakinisとの結合から生まれる」という(Shaw, 1994, p. 254).。
Evans-Wentzの古典、“Yoga and the Geheimlehren Tibets”[ヨガとチベット秘密の教え]では、candaliの「点火」に関して特に印象的な場面を記述している。ここでは、「火の女性」は太陽の上で瞑想をする燃えるものとされている。マスターは生徒にの3つの主なチャンネル、チャクラと女性ヨガ行者の「空の形」を思い浮かべることを求めたあと、以下の通りに続けなければならない:「この段階で、あなたは手のひらの中央と足の裏の中央に太陽を想像しなければならない。それからもう片方の手のひらと足の裏の太陽をみなさい。そして生殖器の下端で、3つの主な精神的な神経[主なチャンネル]と出会う太陽を想像しなさい。あなたの手と足の太陽同士の影響で炎がつけられる。この火は、臍の下の太陽に火をつける。…そして全身は燃え出し、息を吐く時、全世界をその自然な火が実際に広がっていくと想像しなさい」(エヴァンズ-Wentz、1937、154ページ)。そして次のような疑問がある:なぜ、タントラの炎を腹へと燃えあがらせるのは女性であって男性でないのか?なぜ、大部分の文化において水の元素に結ばれている女性が、ここでは火と同等視されるのか?candaliはなぜこれほどまでに攻撃的で破壊的で怒っていて野生的なのか?しかしまず、なぜ名人が彼自身の体の「内部の女性」に火をつけるために本当の女の子を利用する必要があるのか、その理由を尋ねなければならない。外部の女性と内部の女性、カルマムドラーとcandaliのつながりがあるのだろうか?
テキストの詳細においてこれらの質問についてここで述べてみる。candaliの起源がヒンズークンダリニーのヘビであることは先に述べたが、それについて、ハインリッヒツィンマーはこう言っている:「ヘビは生命力が発達している世界と体に実体を与え、神的な世界に影響を与える力[shakti]の形である。」(ジマー、1973、141ページ)。生命、創造、世界、力:クンダリニーまたはcandaliは全く同一のエネルギーの現れで、これはヒンズー教と仏教の両方で女性とされる。したがってジマーは、神秘的なヘビを「世界の女性」としてはっきりと言及している。candaliに対応する説明も同様である。外観の世界に対する態度が敵対的である仏教ヨガ行者は、女性と出生の行為に対して、生命のもつ重荷の責任を負う。彼のにとって「世界」と「女性」は同義である。彼の想像力で心の中の女性を焼き尽くすとき、彼は積まれた薪の上に、放火魔的な暴力行為をもって象徴的に「世界女性」を投げだす。しかしこの世界は同様に、彼の古い身体と認識の感覚の集合体、精神的なムードや人間の知覚構造を含んでいて、それら全てが炎の犠牲になる。ひとたび彼が大火災によって既存の宇宙(それは女性の法の下にある)を破壊するならば、彼は宇宙の統治者の神として起き上がることができる。
タントラ教において燃える元素が女性的なものであるというのは、シンボリックな操作に近づく試みであることを証明している。インドの文化においても、女性というのはタントラでいうような火と太陽ではなく、むしろ水と月に基本的に関連があり、また関連づけられてきたことを全てが示している。非タントラ的なインドのカルト(Vedic, Vishnuite)では、性の古典的な役目がその有効性を完全に保持してきた。したがって「火の女性」の点火は、文化的な基準に反してもたらされる「人工の」試みに関したものとなる; これはヨーロッパの錬金術師が「燃える水の生産」と呼ぶものだ。本来女性的なものである水は、炎の男性的な力によって燃やされて、破壊的なものになる。我々はcandaliが火をつけられた水エネルギーというより象徴として理解されていることを後に示してみる。水はこの場合一種の燃料として用いられ、両性具有者の破壊の戦略において、火をつけられた女性原理として「爆発する」。この賢明な考えはタントラの逆転の法に由来している。Candamaharosanaタントラは、「女性は、変容の最高の炎だ」という(ショー、 1994、39ページ)。
もし女性がKalachakra儀式でその意志に反して火を受けると仮定すれば、candaliがなぜそれほど攻撃的に、破壊的に反応するかを理解することができる。一旦彼女が燃え上がると、その組織的破壊に関する全ての手順を本能的に見つけるのだろうか? おそらく、彼女もヨガ行者の裏切りの意図に野生動物のようにうすうす気づいていて、彼を皆殺しにして自由になるために、彼女の基本的で感覚的な苦しみの集合を破壊し始めるのだろうか?正確に言えば、タントラの名人が望むのは、彼が純粋な意識だけとして存在する状態に到達することなのだ。彼の最初のゴールは、彼の人体の最後の原子に至までの完全な非物質化である。このため彼は、父権的な物によるに女神の憎しみ以外の何ものでもないcandaliの火のような怒りを必要とするのである。
しかし逆に、candaliがその神と「神聖な結婚式」を祝う時に、「消費する火」すなわち女性を焼き尽くす愛の炎の支配に陥ってしまう。キリスト教の修道女は、unio mystica with Christ 彼らの天国の夫を、しばしば火に例る。Theresa of Avilaの場合、愛の炎は明解に性的なシンボリズムとの関連がある。彼女が愛の神の貫通を表した語は有名だ:「私は金の長い槍と共に彼を見た、その先端はまるで炎でできており、それが私の心臓に何度も押し込まれ、内臓を貫通するように私には思われた!...。痛みはうめ気声をあげるほど大きかったが、この過激な痛みの甘さはそれから解放されたくないと思うようなものだった」(バタイユ、1974、220ページ)。完全にそして全面的にその全存在をヨガ行者に降伏し、全ての心の愛情を彼に開いている女性も、炎のうちに燃え上がる。憎しみと神秘的な愛の両方が 高い起爆性物質なのだ。
何が女性を火の上に置くかには関係なく、この内部のステージで続く放火癖を持つドラマは、最初から最後まで「火の支配者」としてヨガ行者の管理下にある。彼は「ディレクター」としてのこの位置を決して明け渡すことはない。バジュラマスターの古いエネルギー身体と、火をつけられたcandaliそれ自身の2つの存在は、タントラ劇の終わりには常に犠牲にされる。candaliは「タントラの女の犠牲」の悲劇的な内部のシンボルで、最初は外界にあって拝火壇で実行されたことは先に述べた。
しかしここにおいても、これまで繰り返してきた度重なる警告があてはまる:ああ、名人はクンダリニーまたはcandaliを制しきれなくなる。その時彼女は「電撃のような恐るべき吸血鬼」、「死の純粋な力」になり、彼を根絶する (Evola、1926、232ペー ジ)。
つづく
by mayufuru
| 2009-05-15 10:39