神社は朝鮮半島から来たの? その3
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続きです。
古代史はおもしろい
神社についてさきほど分社ということを言いましたが、これがあるために日本の歴史がたいへんわかりよくなっているのです。高柳光寿さんだったと思いますが、古代、中世は神社は独立国だったと言ってます。共同体の中心は神社だったのです。昔は国家はないんです。国家もなければ、民族もない。だから日本人もなければ朝鮮人もなかったのです。ただの人間です。彼らが朝鮮から渡来してきて、一つの集落を作ります。そうするとまず精神的よりどころとして、首長が死ぬと、それを祭って神社をつくる。その神社を中心に共同体の集落が動く。
しかも神社は精神的なよりどころであったばかりか、兵馬の権をも持ったのです。祭祀権を持つということは、兵場の権をも行使したのです。だから共同体の独立国だったのです。朝鮮では今でも長男が祭祀権を持ちます。・・・特に日本の昔は祭祀権を持つ者が兵馬の権をも行使したわけです。
そうやって神社の集落、共同体が大きくなります。大きくなると分家が行われます。今は土地を買って移るためには、一坪百万円だ、東京なら千万円だみたいなことですが、そのころはそうではない。行って住めば、それで良かったのです。別に地主も何もなかった。行って縄を張って、ここだと言えばいい。そこに神社を勧請して、住めばいい。そういう具合にしたものですから、神社があちこちに広がっていきます。
日本の皇国史観の歴史によると、神功皇后ということで紹介しましたが、古代日本は任那日本府を置いて四世紀から六世紀に渡って朝鮮半島南部を支配したということになっています。
たとえばローマがイギリスを支配した。これは文献がなくても遺物・遺跡でわかります。では、日本の大和朝廷が二百年にわたって南部朝鮮に任那日本府を置いて支配したのならば、ぼくの言う「朝鮮の中の日本文化」がなくてはならない。ところがこれは一つもありません。
1910年に朝鮮を併合して、いわゆる「日韓併合」が行われたときに、日本の一流の学者と大きな予算をつぎ込んで、任那日本府を探そうというので一生懸命探したのですが、なかったのです。
しかも日本は近代になって36年間朝鮮を植民地支配しました。これは間違いのない事実です。また秀吉の話も事実です。36年間に何かを残した。行ったら、残っていました。刺身という言葉です。これは朝鮮語になっています。下駄という言葉も残っています。あるいは弁当という言葉もあります。わずか36年でこういう具合に残しています。二百年ならもっと残しているはずですが、ない。
・・・・・だからといって、ここで注意して欲しいのは、僕は朝鮮人と日本人を同じものだと言おうとしているのではない。違ったものです。人種と民族は別物だということです。
人種と民族を混同するところから、誤解が起こりやすいのです。よく人種的差別をするなと言います。朝鮮人を差別するなということですが、これは民族差別であって、人種差別ではない。人種はかわらないのです。同じ顔でしょう。ぼくが道を歩いていても、日本人か朝鮮人かわかりません。つまり人種は別ではない。しかし、民族は別です。
民族というのは、初めから民族があったわけではない。・・・・・
ですから奈良時代まではおそらく高句麗系、新羅系、百済系というのが明白にあって、対立していたと思うんです。それが千数百年の間になくなった。
つまり民族というものは、その風土における歴史の積み重ねによって形成されるものである。・・・だから民族というのは近代的な概念です。国家、国境、民族というものと、人種は別物です。
民族的にはわれわれははっきり違います。・・・初めに大和朝廷ありき、というのはうそっぱちです。朝鮮もそうです。朝鮮民族も徐々に歴史的に形成されたものです。これをわれわれは理解する必要がある。それ以前は人間時代というのでしょうか。まったくの平等といいますか、入国管理庁もなければ、パスポートもなかった。自由に行ったり来たりしていた。そういうことをわれわれは知っておく必要がある。そういう目でわれわれは現代をも見る必要があるのではないか。
聴衆の質問に答えて
・・・ぼくの証拠は日本の学者が書いたもの以外にあげないことにしているんです。そういう本を書いても、すべて日本の学者以外のものは引用しません。韓国の学者も北朝鮮の学者も研究しています。ずいぶんあるのですが、それらは引用しないことにしています。日本の学者、文学者の書いたものを読んで、実地にそこへ行って見て、ということをやっています。
・・・金多遂というのが新羅から従者をたくさん連れてやってきます。「日本書紀」に書いてありますが、きらびやかにやって来ます。これをつまり人質だと言ってるわけです。大変な人質があったものです。従者を連れてきた人質なんて、考えられません。それが後の天武ではないかという人がいますが、ぼくはちょっと違うと思います。
・・・伊勢神宮は金沢庄三郎氏がはっきり書いているように、伊勢とか宇佐のイ、ウというのは接頭語です。勢はソです。伊勢に行くと韓神山というのがあって、そこに韓神神社があります。今は小さい祠になっていますが、伊勢神宮はそこから始まるのです。
その韓神山は禰宜を祭った山です。禰宜というのは朝鮮語のネク、魂という意味です。そういうことで韓神山が伊勢にあるというのは、面白いでしょう。
もう一つ言語ですが、日本で一番権威がある地名辞典は富山房から出ている吉田東伍博士の「大日本地名辞書」だと思いますが・・・
去年になってやっと総論を開いてみると、「地名原義論」というのですが、こうあります。「上古には、日本語と韓国は、同語同言の人民たり、各自にその法俗を異にしたるにせよ、語言の根源においては、理論上まったく同一に帰せられる。この際の異動の論は、もっぱら転訛の程度いかんというにあらん。すなわち転訛の差異が、両国の差異を示すにすぎざりけん。もしそれ、両国ともに古言を保守して、転訛なき名詞のあるあらば、古今同名というを得ん。されば、本邦古言の考証は、多く韓語によりて資益せらる」と、つまり古代は同じ言葉だったというのです。
ぼくはこれ以前から疑問に思ったのは、天智朝(近江朝)に数千人の人々が百済からくるでしょう。百済が滅びてから、高官がたくさん入ってきて、文部大臣兼国立大総長みたいなものになる。国務大臣にもなる。それらが、一体どういう言葉をしゃべったかということです。通訳付きの大臣というのは、どう考えてもおかしい。
その時代まではほとんどは同じ言葉ではなかったかと思います。なぜならばドイツで最近、労働者の語(?)を調査した論文が発表されましたが、なんと5、6百語です。そうすると古代は百もあれば用が足りた。
・・・・・もう一つ、面白いことがあるんですが、朝鮮カボチャと日本カボチャは違うんです。ぼくは数年前にやっと朝鮮カボチャの種を手に入れて庭に植えたんです。いいカボチャができまして、非常においしく食べたのです。さらにそのカボチャの種をとって、翌年植えたら、ちょっと違うカボチャができました。三年目、四年目になると日本カボチャになってしまった(笑)これにはびっくりしました。
人間も変わるのです。・・・・・そういう具合に二代、三代ですでに顔が変わります。カボチャばかりではない(笑)。そのように言葉もどんどん変わるものだということです。(1982年5月17日)
つづく