神社は朝鮮半島から来たの? その2
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旧「Earth Blue & Moon Cafe」
金達寿さんの本の書き写しの続きです。
関東に見る高句麗・新羅・百済系
先ほど秦氏の八幡様が全国にたくさん広がったと言いましたが、神社が広がるということは、それを祭った氏子が広がるということになります。その例として、話は関東にやってきます。
今朝の読売新聞を開いてみますと、一面に浅草三社祭に二百八十五万人、・・・という記事が載っています。この三社祭の祭神がまさか朝鮮渡来系とは、皆さん思ってないでしょう。・・・
どうしてそんなことを言うかというと、浅草寺は百済仏です。まあ仏教は公然と仏教伝来がありますし、浅草寺の秘仏が百済仏であり、長野善光寺もそれであるということは、かなり広く知られています。
それよりも三社の祭神がどうして朝鮮渡来の神様なのか。「東京都の歴史散歩」という文庫本を見るとよくわかります。・・・・・日本書紀には685年から760年の間に六回、渡来してきた百済、新羅、高句麗の僧俗男女多数を武蔵野国に置く記事がある。とくに716年には高麗郡、また758年には新羅郡が新設される。・・・」
つまり浅草三社の神様というのは、浅草寺の仏像が漁をしたときに網に引っ掛かったという伝説になっていますが、その人間は土師直中知、檜前浜成、同竹成である。・・・
土師中知という土師氏も百済系です。今の羽曳野市、「近つ飛鳥」の河内のほうの飛鳥に行きますと飛鳥戸神社というのがあって、百済の混伎王(こんきおう)を祭る神社があります。みな百済系の渡来人ですが、これを祭るのが浅草三社です。・・・これを知ったら、二百八十五万人も行かないかも知れません(笑)。
そして高麗郡は池袋からすぐです。・・・まず飯能ですが、ハンナラという言葉のなまったものだそうです。・・・ナラとは朝鮮語で国ということだと言いましたね。
*奈良もそうです。
飯能はハンナラ、韓国ということだそうです。・・・今でも高麗という駅があります。・・・・・高麗神社は今でも栄えていますが、戦時中から非常に栄えた神社です。・・・高麗神社におまいりすると、戦地に行っても弾に当たらないというんです。・・・そればかりか、どういうわけか偉い人がたくさんおまいりする。何とかの宮様とか、ある新聞にでていましたが、検事が事件が迷宮入りになると高麗神社におまいりする(笑)。
この高麗神社の宮司は今でも高麗氏で五十九代目です。そして分社が武蔵の国に約百三十ほど広がっています。あるところでは白髭神社になっており、あるところでは大宮神社、あるところでは広瀬神社というふうに名を変えていますが、高麗神社の分社です。
ここで一つの問題は白髭神社です。白髭神社は全国至るところにあります。早い話が浅草に白髭橋、白髭神社があります。浅草の白髭神社は由緒書きを見ますと、近江の白髭神社を勧請したものです。
琵琶湖に行きますと、デパートの高島屋が興った高島郡に大きな白髭神社があります。比良山地がありますが、この比良も本当は新羅だったのです。関西に行くと質屋のことをなんと言うかご存知ですか。ヒチヤと言うんです。シがヒになるんです。・・・・・僕が一番悩んだのが、高麗神社の分社に白髭神社があることです。
ぼくは日本全国をほぼ歩いていまして、白髭神社はどう見ても新羅系の渡来氏族が祭った神社です。なのに高麗神社の分社に白髭神社があるのはどういうわけか、
・・・その澄雄さん(*五十九代目の宮司)の話でチラッと、そこに高麗神社が祭られる前に白髭神社があった。それが衰微して、その上に高麗神社が重なったものです。・・・つまり猿田彦と一緒に祭っているんです。高麗若光と今でも。猿田彦は白髭神社の神様です。日本で言う国つ神です。
白髭神社が退化して、そこに高麗神社がかぶさって出来た。・・・そういう具合にしてできたということを、ひとつ理解しておいて欲しいと思います。
高麗神社にまいりますと、系図をみせてくれます。ただし、副本です。・・・系図のことを朝鮮では「族譜」と書きます。「ジョクポ」と言います。・・・この系図が鎌倉の中期の1259年に焼けてしまって、しかも高句麗から彼らが渡来したときに持ってきたものが、全部一緒に焼けてしまう。
系図が焼けてしまったので、高麗宗家から出た枝族の有力者が集まってそれを再編集します。朝鮮でも族譜を二十年ごとくらいに宗家に集まって再確認、再編成するんです。・・・
その時に集まった記録が残っています。これは非常に貴重なものですが、高麗、高麗井、駒井、井上、新、神田、新井、丘登、岡登、岡上、本所、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、中山、武藤、芝木の各氏が集まって、系図を再編集しています。
「千七百九十九人の高麗人をもって高麗郡を置く」ということが、「続日本紀」にはっきり出ています。716年に高麗郡が健郡されるわけですが、その長の分かれたものだけでも、鎌倉中期の1259年までにこれだけあります。今にしてみれば、その分族がさらにどのくらい分かれたか、わからないです。
高麗家から分かれたものとしては、一番有力なものが金子氏です。八高線に金子という駅がありますが、ここが彼らの本拠地だったのです。高麗から分かれた分家ですが、これがだんだん広がって、もと狛江郷の調布のほうまで広がってきます。
・・・ここは昔、狛江郷と言いまして非常に広い範囲にわたっていた。井の頭公園までずっと狛江郷だった。江戸時代末期までは狛江百塚と言われて古墳のたくさんあったところです。
・・・この亀塚古墳を戦後になって、国学院大学の大場磐雄氏らが発掘しました。典型的な高句麗の古墳です。
今はけもの偏になって高麗を狛江にしていますが、いろいろな遺跡がまだたくさん残っています。・・・こういう具合に高句麗系は川崎のほうまでずっと広がりますが、高麗神社の高麗さんはどこから上陸したかというと、大磯です。
・・・今でも毎年7月18日にお祭りが行われていまして、高麗の若光がそこから上陸するという神事です。ここに高句麗の連中が上陸して、一方は埼玉県の武蔵野に広がってくる。一方は箱根のほうに広がって、箱根権現になります。箱根に駒ケ岳というのがありますが、あれは馬の駒ではない。元は高句麗のコマです。・・・・・箱根権現、箱根神社です。・・大磯の高麗神社の分社です。
しかもそこからさらに広がって、熱海に行って伊豆山神社になります。
・・・ところが、そうしてしばらくたったら、山形県に寒河江(さがえ)市というところがあって・・・
ところがなんとなく気になって、寒河江がどうして朝鮮語なんだろうと思っていたところ、ちょうど丹波基二氏の「地名」という本が出ました。・・・そして「寒川」というところを開いてみたんです。そうしたら、「朝鮮語のサガ(私の家、社などの意味)から来る。朝鮮渡来人の集落があった。寒川神社はその兵神」と書いてありました。要するに、寒川神社は朝鮮からの渡来人が自分たちの祖神を祭った神社だというわけです。
・・・これは高句麗の連中が来る前に祭られた神社です。行ってみて、古墳などの状況から、そうわかりました。そこでまたかぶさったのです。
しかも一方に秦野というところがあります。小京都ともいいます。ここに行きますと、祇園という地名もあれば、賀茂という地名もあります。大秦野という駅もあります。そこには新羅・加耶系の秦氏族も来ている。
そればかりか、池袋から東上線に乗ってみますと、志木というところがあります。これは新羅がなまったものです。しかも途中に白子というところがあります。これは新羅の連中が居住したところです。
白というのは、神社では白山神社というのがほうぼうにあります。とくに愛知県や岐阜県には数百あります。新潟その他全国にまたがってあります。これも本当は白山比咩神社です。
埼玉県に白子、志木があって、新羅郡から新座(にいくら)になった。神奈川県では高座(たかくら)郡ですが、これは高句麗です。埼玉は新羅だから新座です、今は新座市になり・・・
しかも群馬に行きますと、もっと濃厚です。吉井というところがあって、「続日本紀」をみると、百五十八家が吉井連(よしいのむらじ)という姓をもらうんです。甘楽郡といえば、日本でいちばん蚕のとれるところですが、元は韓郡です。鏡川がありますが、これも韓川だったのです。
吉井というのはどういうところからきたのか知りませんが、新羅系の連中は吉井連という姓をもらうわけです。
栃木県にいきますと、那須国造碑というのがあります。これも新羅です。こういうふうに関東だけでもたいへん濃厚に遺跡を残していまして、大和や関東の遺跡をみるだけでも、高句麗系、新羅系、百済系がまんべんなくあり、九州に行くともっと濃厚です。
ただ、非常に薄いのが北海道です。東北まではまんべんなく、先ほど八、九割までが渡来人だと言いましたが、これは日本全国どこでも当てはまります。
つづく
by mayufuru
| 2008-11-14 10:50