世界を支配する王 その13
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『ダライ・ラマの闇』
http://www.iivs.de/~iivs01311/SDLE/Contents.htm
4.逆転の法
の続きです(yasuさん翻訳)
前回、翻訳の最後の部分で予告したように
今日からしばらく内容がかなりハードになります
読み方のアドバイスとして
風を通しながら、
あるいは右耳から左耳に抜けるような
そんな感じで読めばいいかな、と思います。
4.逆転の法
性的な欲求
新たに性の話題から始めよう。これは、タントラ教の全てが中心として回る軸となるものだ。我々はすでに、女性が男性の覚醒への経路における最も大きな障害と考えられていた理由について詳細に話してきた。女性は再生への恐るべき出入口を表すために、女性は幻想の世界を生み出すために、女性は男性の力を盗むために? 悪の起源が女性の内に横たわるとされた。したがって、女性に触れることは前タントリック段階の仏教徒にとって、最も重いタブーの違反でもあった。それが性交にいたるならば、罪の重さはますますひどいものだった。
しかし、ほとんどの覚醒からの大きな隔たりは「マラの娘たち」によるものであり、彼女らが男性にとっての最も大きな障害であり、自由の領域への障害と考えれていたため、 タントラの「逆転の法」により、これはあらゆる熟練者にとってイニシエーションの道における重要な試金石だった。いかに女性を支配し得るかを理解し、またいかに創造の全てをコントロールするかを理解する者は、彼そのものによりそのまま表される。このパラドックスのために、性的結合はVajrayanaの持つ絶対的優先を楽しむ。 他の全ての儀式行為も、それがいかに奇怪に見えるとしても、この性的な魔術の起源に由来する。
*Vajrayana=密教(タントラ仏教)
実は、同様のタントラ的な仮定 ? 正反対の極性をを克服することにはより価値があり、より称賛に値し、より異常な特徴を表すと考えられるべきだ? それは性的関心にもあてはまるに違いない:この「逆転の法」によって、女性がより陰鬱に、不快極まりなく、攻撃的に、邪悪なものになればなるほど、 儀式の性的パートナーに適したものになる。しかし、ヨギが特に若くて魅力的な女性(ここに注目)を好むというのは、この醜悪さの仮定とは矛盾するようだ。
ちなみに、Kalachakraタントラはこの矛盾に気づいているが、解決することができずにいる。時間タントラの3冊目の本は以下のように指摘している:「最悪の、激怒した、高慢な、お金に貪欲な、喧嘩早い...こういった女性たちは避けられる」(Gr nwedel、Kalacakra III、121ページ)。だが、2、3ページ後には、まさに正反対のことばをみつける:「女性、肉欲に身を任せ、血の中に喜びを見いだす女性...はヨギによって尊ばれる」(Grunwedel、Kalacakra III、146ページ)。4冊目の本は直接「逆転の法」を扱い、207節はカルマムドラーを「ふしくれだった高級娼婦」と説明している。このすぐあとに、女神がなぜヨギのためには高級娼婦の顔の後ろに隠れていなければならないかという議論が続く「聞いたことがないほどの男性的な力を、訓練された高級娼婦の愛する寄与を通して受け取ることができるとすれば、金は銅と同等の、神の冠の宝石は銀のグラスと同じ価値を持ちうる...(Grunwedel、Kalacakra IV、209ページ) ? つまり、最も高度の男性的力は、最も卑しい女性的力により獲得することができる。
*Kalachakraタントラ=カーラチャクラタントラ
この光において、Chakrasamvaraタントラは、傲慢で、むら気で、誇り高く、支配的で、野生的で、飼いならされていない女性とのエロチックな実習を勧める、そして、yogini Laksminkaraは読者に「切断されて醜い」女性を尊敬するよう訴える。(Gang、1988、59ページ)Maha Siddha Tilopaもタントラの逆転の方を厳しく守って、「18箇所の醜さ」?それらがなんであるにせよ?を持つ女性と交接した。彼の生徒 Naropaは彼の先例にならって、「醜いハンセン病の年をとった老婆」によりイニシエーションを受けた。後の時代の後継者Marpaは「汚いにおいのする 『葬祭場のダキーニ』...攻撃的な匂いするやせ衰えた胸と巨大な性器を持つ、を手にイニシエーションを受けた。」 (ウォーカー、1982、75ページ)。
*yogini=女性ヨガ行者
醜く「愛するパートナー」は最初の間、救済への道と熟練者としての人生を脅かすが、タントラの逆転のプロセスが終わる時には、彼女たちはおとぎ話の美女のように輝いている。まるでヒキガエルが王女に変わるかのように。 この変化の後には、「ジャッカルのあご」は「知恵のダキーニ」になり;「ライオンの口」は、「あおみがかった顔と輝く微笑」をもつ尊敬すべき「ブッダ ダキーニ」になり;「くちばし-顔」は、「かわいらしく白い顔」を持つ「宝石のようなダキーニ」といったように。(スティーヴンズ、1990、97ページ)です。
こういったすべての魅力的な生き物は、彼らのグルの完璧なコントロール下にあり、彼は悪魔的な女性の征服を通して魔法使いの資格を得てきたのであり、今や変容した悪魔のための調べを呼ぶ。
すぐに理解できる理由で、性的魔法の修行において若くて魅力的な女子がより好まれるという事実がある。しかしこのために、逆説的な説明もされている:その魅力のために、ヨギにとって処女たちは年おいた老婆に比べてはるかに危険だ。彼がこのような中で感情的で性的な自制を失う可能性は何倍も高い。これは、魅力的な女性が醜い女性に比べ、より大きな難問を彼に提示することを意味する。
「逆転の法」をパートナーの女性の社会階級に適用するとき、年齢や美しさに関して適用する以上に、タントラはより首尾一貫している。下層カーストの女性は推薦されるべきものではないが、むしろ特定の儀式のパフォーマンスのためにまさに必要とされるように見える。Kalachakraタントラは、女性庭師、肉屋、陶芸家、売春婦と裁縫師を推薦のリストにあげる。(Gr nwedel、Kalacakra III、pp. 130、131)他のテキストでは、雌ブタの群、女優、ダンサー、歌手、洗濯女、ホステス、織工の類いについて語っている。チベット研究者Matthias Hermannsはこう記す、「情婦もまた好まれる。よりいやらしくて、堕落し、汚く、反道徳的で、自堕落であればあるほど、 その役割により適している。」(ヘルマンス、1975、191ページ)。 この評価は、いかなる性質をその女性が持っていようと、どんなムドラーでも受け入れるというタントラのAnangavajraの要求と調和する。「根本的で2つとない実質の中にその存在を抱える全てが、ヨガのために有害ではありえない;したがってヨギは全てを彼の心のものとして、これっぽっちの恐れや躊 躇なしにそれを楽しまなければならない。」(ダスグプタ、1974、184ページ)。
何度も言うように、candalisはいわゆるタントラにおける性的パートナーである。最下層のカーストからの女子らもいて、火葬場のまわりでのあらゆる種類の仕事で乏しい生計を補っている。Hevajraタントラの解説からも、彼女たちが放浪のヨギに後者の性的慣習を申し出た事は明らかだ。(スネルグローブ、1987、第1巻、168ページ)保守的なヒンズー教徒は、このような生きものは手を触れるべきではないと考えていた。もし candaliがヒンズー教徒に影をおとしたとしても、破壊的な結果はまだ訪れていなかった。
これがヒンズーカースト制の儀式の厳格な規定を無効にしたので、社会革命的な基本的態度はタントラの仏教のものとされた。特に現代のフェミニ ストはこれを公認している。(ショー、1994、62ページ)。 しかし、下層階級からの女性が性的パートナーとしてより役立つという明らかな事実を除けば、ここでも「逆転の法」はそのくだされる選択のために決定的であると思われる。女性の社会的劣等性は、タントラ儀式の「二律背反」を増すことになる。「これは『洗濯女』や『情婦』の決定的重要性の象徴だ」我々はMircea Eliadeの本に見ることができる。「そして正反対のアイデンティティというタントラ教義によれば、『最も立派で貴重な』ものは『最も卑しくて最も陳腐な』ものの中にしっかり隠されている、という事実に慣れ親むべきだ。」(エリアーデ、1985、261ページ、メモ204)。
同様に、より高いカースト(Brahmans、『戦士』または金持ちの実業家)の女性がタントラの意思のリストにある時、そして特に彼女らが結婚している時は、この厳しいタブーが上流階級からの使用を通じて破られるまで、逆転の法則はここでも機能する ? ヨガ行者の果てしない力のための指標として。
近親相姦タブー
古代社会より、近親相姦の禁止に違反することには議論の余地がない証拠がある:高いクラスのタントラ教徒には、彼自身の母または娘との性交はほとんどないし、叔母または義理の姉妹においても奨励されなかった。ここでも、ドイツのラマ僧Govinda は、文字通りテキストを取り上げる事に対してきっぱりと反対している。「タントラ仏教徒が、本当に近親相姦と性的逸脱を奨励した。」と考えるのは明らかに馬鹿げているだろう。(ゴービンダ、1991、113ページ)。母、姉 妹、娘その他は、4つの要素、自己中心癖やそれに類似した何かを表していた。
しかし、このようなシンボリックなあてはめが、近親相姦の実際の可能性を必ずしも否定するというわけではない。これはチベットの古い社会だけでなく、世界中に散らばった全く独立した文化全般に実際にみられた。ここでも、ヨギ?原則的本質として禁止されるものへの基本的な違反に興味を持っている?が近親相姦の関係を本当に切望したにちがいない、という正当性は存在している。また歴史的レポートが欠如しているわけではなく、16世紀の清教徒のようなラマ僧が、放蕩者同僚の乱交を記したその呪いのことば示してみる:「性的な結合の儀式を実行する際には、人々は血縁者にかまわず交接する...あなたは犬とブタより汚れている。あなたは純粋な神に、糞便、尿、精液と血を提供し、腐った死体の沼で生まれ変わるだろう」(パス、1984、95ペー ジ)。
汚れたものの飲食
儀式での中心的な役割は、タントラの食事によって演じられる。仏教僧が肉を食べたり、アルコールを飲むことは、絶対に禁じられている。このタブー は、Vajrayanaの熟練者によって故意に破られる。違反をより徹底的なものにするために、通常、インドの社会で「禁じられて」る種の肉を食べる事が望まれる。:象肉、馬肉、犬肉、牛肉、人間の肉。後者はmaha mamsa『すばらしい肉』という名前で呼ばれる。それは通常死んだものであり、「自身のカルマによって死んだり、悪のカルマのため、また彼ら自身のあやまちのために争いで殺された人々の肉であると、Pundarikaは彼の伝統的Kalachakra解説において書いている。そして、錠剤の形でこの肉を摂取することが賢明であるとも付け加えている。(ニューマン、 1987、266ページ)少量の乳首は、Kalachakraタントラの現代テキストでも薦められている。(Dhargyey、 1985、25ページ)いろいろな部位を区別し、脳、肝臓、肺、腸、精巣など、特定の儀式のための使用に要求されるレシピがある。
5つの肉のタブーのタイプは、聖礼典の性格を与えられている。それらの中で、「逆転の法律」を通して現れる最も高いブッダのエネルギーが集中される。テキストは、「5つの神の食物」または「5つのネクター」についてこのように話している。 他の汚れた「食べ物」は、5つのDhyaniブッダに割り当てられている。Ratnasambhavaは血に、排泄物Amitabhaは精液に、Amoghasiddhiは人肉に、Aksobhyaは尿に、Vairocanaは排泄物に関係している。(ウェイマン、1973、116ペー ジ)
Candamaharosana タントラは、熟練者が性的な魔法の儀式の間に彼の知恵の配偶者によって提供され、喜びを持ってのみこまなければならない特定の物質のリストをあげている:排泄物、尿、唾液、彼女の歯の間から残り物、口紅、皿の水、嘔吐、彼女の肛門をきれいにしたあとの洗い水。(ジョージ、1974、pp. 73、78、79)「排泄物と尿を食物とするのは本当に幸せになる」とGuhyasamaja Tantraが約束している。(Gang、1988、134ページ)Hevajraタントラでは、熟練者は彼のムドラーの月経の血を頭蓋骨のボールから飲まなければならない。(ファローとメノン、1992、98ページ)。腐った魚、下水道水、犬の糞便、死体脂肪、死者の排泄物以外の、生理用ナプキンなど、考えられる全ての「興奮させる飲み物」が消費される。(ウォーカー、1982、pp. 80 84)
修行中のヨギはこれらの汚い物質を消費する際に少しの嫌気も感じないという厳しい戒律が存在している。「人は、決して排泄物、尿、精液 または血に嫌悪感を覚えると感じてはならない」(Gang、1988、266ページ)。基本的に、「彼は彼が得るものは何でも飲食しなければならないし、好き嫌いに関して少しの概念も持ってはならない」(ファローとメノン、1992、67ページ)。
しかし、チベットの医療においてもあらゆる種類の人間や動物の排泄物が治療に使われているように、それはタントラ教の儀式中だけのものではない。ラマの高僧の排泄物と尿は薬として求められる。錠剤に処理され販売され、チベットでそして亡命チベットの修道院のビジネスとして重要な役割をかつては果たし、そして今もまた果たしている。 そして当然、最高位のダライラマの排泄物には最も高い価格が支払われる。神-王である若かりし14世の北京滞在中(1954年に)のレポートに、彼の神聖な排泄物をラサに送って薬に加工するために毎日金色のポット で集めたという詳細がある。(Grunfeld、1996、22ページ)たとえこの話の出所が中国のキャンプだとしても、対応するような慣習が全国中で一般的だったことから、信頼するのに苦はない。…つづく
by mayufuru
| 2008-05-18 22:26