チベットからまたナチスにマントラにTMに瞑想にヒッピーにニューエイジに
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とりあえず
翻訳した「ダライラマの本当の顔」
これを証明するようなビデオを紹介します。
フイルムが残っていたとは知らなかった。
世界中でこれだけ騒がれているチベットなのに
フリーチベット以外のビデオはほとんど誰も見てないようで驚き。
YouTubeにチベットに関するものはたくさんアップされていますが
ここではほとんど知られていない内容だけ紹介します。
もちろん中国がやっていることも問題だけど
世界に向かって、「チベットに自由を!」
と呼びかける張本人は一体何をしてきたのか。
ダライはチベットではなく青海省(中国)生まれだそう。
①Holly place under Dalai's rule(例のナチスも出てきます)
http://jp.youtube.com/watch?v=daSOxIvXoSY
②Tibet: The Truth (A Political History)
http://jp.youtube.com/watch?v=Xsoc4-QnplY
③Tibetan slaves under Dalai Lama's rule yelling for FREEDOM !
http://jp.youtube.com/watch?v=PFt7exWSJwQ&NR=1
こちらのビデオは③の写真と同じものですが
このマントラのような不気味な音は何だろう?
敏感な人は聴かないほうがいいでしょう。
④My freely life in Tibet!
http://jp.youtube.com/watch?v=9-FPSTf9iEg&NR=1
ayさんご紹介のサイトを訳してみました。
『Human Rights of Tibet』
http://factandtruth.wordpress.com/human-rights-of-tibet/
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『Human Rights of Tibet』
チベットの人権
このポストで私は歴史について話したい、1935-1959にダライ・ラマに支配された時、Dalaiは、どのようにして中国政府の敵、そしてチベットの人権になりましたか。
実際、ダライ・ラマは、チベット仏教(追放中の多くのチベット人が聖下としてダライと呼びます)の特権の宗教のタイトルです。前のダライ・ラマが死んだ後、仏教僧は後継者として小さな少年を選ばなければなりません。新しいダライ・ラマは中央の中国政府によってを得なければなりません。今日、有名なダライ・ラマは14番目のダライ・ラマです。この人はチベットではなく青海省(中国)で生まれました。中国本土がKuoMinTang(国民党?)によって支配されていた時、指名は1935年に中央政府によって承認されました。
1949年に、共産党は内戦でKuoMinTangを破り、共産主義の軍隊は1950年にチベットに入りました。共産党が、最初はとりあえずチベットの奴隷制度を廃止する計画はないと約束したので、ダライは中国共産党(CCP)を支援しました。その時に、チベットは奴隷制度が法律の一部である最後のエリアでした。
ダライは、CCPが遅かれ早かれ必ず奴隷制度を廃止すると考えました。したがって、1959年に彼は軍事クーデターを行使した、結果、ダライの軍隊は多数の軍隊(PLA)に敗北し、そして彼の支持者と共にダライはインドへ逃げました。
中国のチベット政府は、チベットの奴隷所有主が強く反対する中、奴隷制度を廃止することを決定しました。中国政府が「民主改革」と呼んだ後、奴隷制度は廃止されました。しかし、多くの奴隷所有主がインドへ逃げて、中国政府の敵になりました。それらの奴隷所有主と家族は、亡命中のチベットグループを作りました。また、それらのうちのほとんどは難民としてインド、ネパールおよび多くの西方の国々で暮らしています。
これらの写真はダライ政府下の普通のチベットの人々の実生活を反映します。
最初の写真は二人の奴隷のチベット人
逃亡の際に手と足が一緒に奴隷所有主によってロックされる
あなたはこれらが何か知っていますか。これらはチベットの人々の皮膚です!ダライ・ラマは、ある仏教儀式を実行するために人間の皮膚を使用しました。奴隷所有主は彼らの奴隷を殺し、皮膚の皮を剥がしました。明らかに、左と右は子どもの皮膚です。また、中央は成人の奴隷のものです。彼らはチベット仏教の教えに従って、ダライに賛美されると信じているので、奴隷所有主は喜んでダライに人間の皮膚を提供します。
3番目の絵は腕が切断された奴隷です。ダライがチベットを支配したとき、人骨は宗教器具にされました。 最も残酷なことは、奴隷所有者が生きているチベット人の奴隷から腕と脚を切り取ることです。
この小さな少女は餓死しました。奴隷所有者は十分な食糧を食べます。そしてsarcrificeとして、彼女の心臓、肝臓、他の器官を使いたいので、故意に奴隷を餓死させます。さらに、少女の頭は飲み物の容器にされます。
この写真が撮られたとき、女の奴隷(Jinyang)が何歳だったか知っていますか。誰もが、彼女は60才を越えていたと思うでしょう。写真が撮られた時は35歳でした。奴隷制度生活がこの若い女性をこのような恐ろしい状態にさせたのです。
私がこのエントリーを編集していたとき、私はダライの政府下でのチベットの人々の悲劇を本当に悲しいと感じました。私はまだ多くの恐ろしい写真を持っています、そしてまたあとでそれらをリリースします。あなたは、チベット人をもう一度、ダライの政府下にいるようにさせたいですか?
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以上です。
このサイトのコメントがなかなか迫力あって日本では想像できないレベル
このサイトに限らないけれど海外のサイトのコメントは違う。
どうして私が欲しいなと思う情報は、いつも海外ばかりなんだろう。
ブロンテ・バクスター(Bronte Baxter)という人からの厳しい質問に加えて
ダライとナチスのコメントがあった。
ブロンテ・バクスター氏によると
個人的に付き合いのあるドイツの女性(研究領域が第三帝国である博士)が
第二次世界大戦中にヒットラーの使者が雪の多い山道を
ダライ・ラマへのためにラジオを運ぶのに数日費やした、
そして
前世紀後半にはチベットの秘密の教えがラマ層の要求によって
ヘレナ・ブラヴァツキーによって西へ伝達された、
そして更に
ブラヴァツキーは彼女の隠されたマスターと秘密のチーフが
ヒマラヤ地域にearthly residence(地球の住まい?)を持っていたと。
「earthly residence」って何だろう?
シャンバラ?
ナチ運動が十分な資金を持つとすぐに
彼らはチベットへ多くの遠征を組織し始め、
1943年まで中断なしで互いに成功、
チベットへのナチの関心の最も具体的な表現のうちの1つが
最も深く最も神秘的なものの採用、まんじ(鉤十字)だった、とある。
ダライ・ラマはナチとの関係を持っていただけではなく、
日本のオウムの麻原と5回出会い、
1995年に東京地下鉄サリンの後にもあったそう。
日本人に真実を尋ねてくださいと、ブロンテ・バクスター氏は言ってる。
Bronte Baxter
http://www.brontebaxter.wordpress.com
ブロンテ・バクスター(Bronte Baxter)氏のサイトを覗いたら
最近ブログでずっと書いていた言葉
『ヒッピー族、ヒッピー、マハリシマヘーシュヨーギー、マントラ、
瞑想、TM、超越瞑想、ダライラマ、ナチス、チベット、
ニューエイジ、デービッドアイク…』
が連なって出てきて思わずびっくり!
封建制や奴隷の資料はこの本からのようです。
http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/1563247143/qid=938740540/sr=1-1/002-2209991-8042249
他にもこんなことが書いてあった。
「1922年にGyantseを訪れた英国人の女性は公共の鞭打ちを目撃し
犠牲者はその後、凍りつく寒さの山道で縛り付けられたまま夜を過ごした話や
20年間チベットに住んだ別の英国人は、
数え切れないほどの目のえぐりだしと切断をみた話や
また別の人は1940年代の終わりにチベットの至る所で
窃盗のために腕と脚を奪われた人々を出会った話などが紹介されていた。
1950年にラサの真中で起きた鞭打ち(200-250回)をライフ誌で見ることができると。
貧しい家庭からは子供が盗まれラサで奴隷として売られた話もあった。
ラサの刑務所では、囚人が施し物を受けるために
年に一度か二度外出することを許されるだけで
あとは深い地下穴に閉じ込められていたと。
そしてチベットで支持された別の罰は、拷問と切断。
やたらとこの切断が出てくるんだけど何かあるのかな?
チベット仏教徒の信念は生命を選ぶことを排除することだと。
これは翻訳にもあったけれど
当時のチベット当局が‘神の行為'として
人々を死の縁に人を鞭打ち不具者にして
他の場所で死ぬように釈放したり
袋に縫いつけて川に投げたりして
死を正当化したこと。
こんなに酷くはないけれど
これってオウムのポアに似てると思った。
このやり方を真似したのかもね。
by mayufuru
| 2008-04-28 13:33