夜の弁天堂
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昼と夜ではがらっと変わる。
金堂みたいできれい。
でもボケボケだ。
写真とは違い、首里城のライトアップはとてもきれいです。
カッコよか。
忍者さんから祭事の動画。
【動画】猿賀神社で「鬼面奉射」/平川
『平川市の猿賀神社で3日、木札に描かれた鬼の面に矢を放ち、悪疫を退散させ、災難を追い払う恒例の神事「鬼面奉射(きめんほうしゃ)」が行われた。同神社崇敬会の会員ら約60人が参列。拝殿わきの矢場で、山谷敬宮司がゆっくりと弓を引き絞り、約40センチ四方の鬼面を目がけ2回、矢を放った。矢は惜しくも命中しなかったが、代わりに「やーっ」という掛け声とともに太刀で木札をバッサリと打ち砕くと、参列者から拍手が起こった。この後、拝殿では県無形文化財の「津軽神楽」も披露された。』
猿賀神社をウィキでみると
主祭神の上毛野君田道命は、蝦夷討伐の将であった、とあるから
この鬼は蝦夷になるんでしょう。
『主祭神の上毛野君田道命(かみつけののきみ たじのみこと)は、蝦夷討伐の将であった。日本書紀には、仁徳天皇55年(367年)、田道は伊寺水門(いじのみと)で敗死し、後に大蛇の姿になって蝦夷を平定したとある。社伝によれば、敗死した田道は従者によって埋葬されたが、後に蝦夷が墓を暴くと、田道の遺体が大蛇と化して毒気を吐いたので、人々は恐れて現在地西方の猿賀野に祀ったのに始まると伝える。二百年後の欽明天皇28年(567年)に当地で洪水があり、田道の神霊が白馬にまたがり流木を舟にして流れに乗り、現在地に遷座したと伝える。
桓武天皇の時代、蝦夷征討に苦戦していた坂上田村麻呂が田道の霊に導かれて大勝したので、延暦12年(793年)、田村麻呂は現在地に祠を作り、大同2年(807年)、勅命により社殿が造営された。
後に、仏教の守護神である深砂大王(じんしゃだいおう)と習合し、深砂大権現(神蛇宮)と呼ばれるようになった。武神として信仰され、藤原秀衡、北畠顕家ら附近にかかわった武将たちの崇敬を集めた。江戸時代には津軽藩の祈願所となり、猿賀山長命院と号する修験道場となった。明治の神仏分離により、明治4年 (1871年) に神社となり、地名より猿賀神社に改称した。現在も、神社の前(かつては境内地)にはかつての別当寺である天台宗神宮寺が残る。明治16年 (1883年) に県社に列格した。昭和34年(1959年)に神社本庁の別表神社に加列された。』
by mayufuru
| 2010-05-07 22:39