私にとってのアヌンナキ、アヌンナキにとっての私
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前にも何度か書きましたが私はややこしいことが嫌いで
なるべくシンプルにものごとを考え伝えていきたいと思ってます。
ただシンプルにと言っても受け取る人はさまざまなのでそのままでは伝わりません。
知識に振り回されるのは嫌なのでほとんど直感で記事を書いています。
記事の調べモノで時々検索することがあるくらいです。
20年ほど前に書いたこの言葉、
ブログでも何度か紹介しましたが覚えていますか。
それは
単なる映像であり
そして
劇場である
私には普段、世界がこうみえています。
だからといって一人で生きているわけでもなく
親しい人たちのみと接するわけでもなく、
日々多くの人と接する中でこれではすみません。
”強烈な自由の目覚”めを体験しても
日常を生きるうえでその感動はすぐ消えます。
ここが辛いところですね。
”世界とは単なる映像であり劇場である”
これを伝えたいがために日々ブログを書いているようなものです。
だからドラマの言葉もよく使います。
さてご質問のアヌンナキですが
何故アヌンナキの名を出すのか自分でもよくわかりません。
でもこのよくわからなささが好きです。
別に他の異星人でもいいのですが、
私の目の前にあるのがたまたまアヌンナキだからです。
としかいいようがありません。
他の異星人の存在や神話を色んな読者の方から
幾度となく教えていただきましたがなぜか目が向きません。
興味が湧きません。(微笑
ごめんなさい。
私は何かを考えるときに”目の前のもの”で考えます。
「ホラ、足元に転がってるよ」って言ってた時代もあります。
目の前にすべて用意されていると直感します。
目の前にあるもので宇宙の真理だってわかると確信しています。
だから、”目の前の贈りもの”のタイトルでイラスト・エッセイ本も出しました。
それが本であるときは少なく、
植物や花や空、夢、人の観察、そういうことがほとんどです。
田舎道の夜空で小さなネオンサインの文字をみたときは
宇宙の仕組みを垣間見たようで感動で体が震えた。
一番は細胞レベルの記憶でしょうか。
情報はもちろん空気中にも真空にもあるわけで
何かに記されたもの、口伝だけが情報ではありません。
夢といえば、映画「アバター」で書き忘れていたけれど、
主人公がナヴィの村で過ごす体験のリアル感が圧倒的で
本来の自分の日常が夢のようだと言っていたけれど、
これは私の夢と日常の比較でももまったくの同感で、
夢の世界のほうが圧倒的にリアルです。
だから昔、変なことを口走っていました。
転んで怪我をして血が出ると嬉しくて
「私って生きてるんだ!」ってよく言ってました。
最近は言わないようにしています。
少し過去を振り返ってみます。
まず95年一月の夢の体験があります。
種(生命)の創造の場面を夢で体験しました。
程よい暖かさの海で魚類の一種が創造されるシーンでした。
あっという間の誕生で、強烈な体験だった。
これで種(生命)の創造は短い時間で行われることを知りました。
だからダーウィンの進化論は私の中にはありません。
それ以前に猿が進化して人間になったとは到底思えません。
その後すこしして偶然に
ゼカリア・シッチンのアヌンナキ解説本「はるかなる神々の道のり」を読みました。
素直に面白いと思いました。
今でも持っています。
次に分子生物学者のフランシス・クリックの
我々人類のDNAは乗り物によって運ばれてきた発言です。
こうでもしないと人類の誕生の計算がまったく合わないそうなんです。
次に一昨年に買ったシッチンのアヌンナキ本(エンキの失われた聖書)です。
もちろんどんな本でもそうですが完璧に信じることはしません。
記憶、閃き、夢の体験の答えあわせをするために読んでいます。
だからたった一行のために本を買わされることも多々あります。
物理系の本は私の考えを正解だよって言ってくれるので
子供のように素直に嬉しい。
「エンキの失われた聖書」は記憶を思い起こします。
そして翻訳のせいか、意味不明な言葉、言い回しがあってこれが好きです。
これがまた記憶をくすぐります。
なぜかアヌンナキにしか興味が起きなくて、ホントごめんなさい。
他に芸がないのかって言われそうですね。
ということで
人類は結構新しい時代に生まれたのではないかと思ってます。
もっと突っ込んで書くとかなり新しいかもです。
最初の「世界とは単なる映像であり劇場である」に立ち戻れば
これすら何も「ない」でしょうが。
これを書いている私ですら単なる映像でしょう。
結局、私にとってのアヌンナキとは一体何なのか?
よくわかりません。
アヌンナキにとっての私のほうがまだしっくりくるかなあ。
あ~、また変なことを口走ってしまった。。。
きょうはここまでです。
by mayufuru
| 2010-02-04 14:46