世界を支配する王 その31
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『ダライ・ラマの闇』
http://www.iivs.de/~iivs01311/SDLE/Contents.htm
yasuさん翻訳による8章のつづきです。
8. ADI BUDDHA:彼の神秘的な体と彼の星の面
The astral-temporal aspects of the ADI BUDDHA ADI BUDDHAの星の現世の面
ADI BUDDHAの小宇宙microcosmic的な体と、大宇宙macrocosmic的全宇宙の間には、超自然的な相関関係がある。 カーラチャクラタントラでは、ADI BUDDHAという言葉は、ヨガ行者またはバジュラマスターのエネルギー体と、すべての世界と星を伴う全ての宇宙を包括している。ヨガ行者、ADI BUDDHA、タントラマスターと宇宙の法則は、このように同義であり、それは神秘的統一を形作る。(我々は、この教義の魔法の相関関係がタントラ論理の理解に絶対必須であり、我々 の西洋/科学的な世界観の影響下では、これを忘れがちである事を繰り返しておく。)
歴史上のブッダがKalachakraタントラを初めてSuchandra王に説明した時に、彼は全ての宇宙が彼の体の中に見つかることをすでに示したという話がある。天の地図は、彼の体に同じように書かれている。太陽、 月、星々が、外部ではなくヨガ行者(ADI BUDDHA)の神秘的な身体の内部で見つかる。これは覚醒したタントラマスターは、彼の内部のエネルギー風を通して惑星を動かすことができるという概念がわきあがってくるということだ。従って、我々が天空に観測する星の自転は風の動きでもある。「星の輪は、 両方の極[極星]で固定され、動く風によって回され、疲れをしらずに回転する」と、Kalachakraタントラの天文学の断片が語っている(Petri、1966、58ページ)。この駆動風は、ADI BUDDHAの「宇宙呼吸」であると考えられる。天体の運動は歴然とした時間をと示すので、タントラマスター(ADI BUDDHA)の小宇宙の「星の体」は1種のタイムマシン(「宇宙時計」)として呼応している。
宇宙的なドラマ(candaliの火のような上昇)がヨガ行者のエネルギー体で続いている間は、この相関関係の教義によれば、マクロコスモスとしての天においても、これに見合う動きがあるにちがいない。 我々は、更に詳細にこの光景を調べてみよう:太陽と月はここで主要な役割を演じ、5つの惑星は端役を担っている。さらに強力な2つの星の主人公 (西洋では知られていない)がステージに登る。それらはラーフとKalagniと呼ばれている。十二宮と恒星は、最初は観衆の中に残っているが、最後にはこのイベントの全般的な嵐に巻き込まれてしまう。
Sun?feminine ? Moon?masculine
太陽―女性的 ? 月―男性的
太陽と月は、Kalachakraタントラではヨガ行者の神秘的な身体の左右のエネルギーチャンネルと一致している。ここでもタントラ占星術の場合のように太陽は女性的であると考えられ、火と月経の血に関連づけられる;これと対照的に月は男性的で、水と精液に一致している。すで我々が一度ならずとも指摘しているように、この相応は文化的歴史に非常に珍しく、伝統的には、月は女性的、太陽は男性的としてみなされている。
インドの文化的範疇で火と水、太陽と月の宇宙や元素の関係を見てみると、このシンボリックな矛盾をより把握できるだろう。ベーダの時代(1500?1000B.C.)には、そのシンボリックなつながりはまだ古典的なものだった:男性=火と太陽;女性の=水と月。 この段階の信仰生活で中心となっている馬の象徴性は、こういった「古典的な」方向を反映していた: 雄馬は太陽と日を、雌馬が月と夜を表していた。 「太陽の雄馬」は男性的な力を、「月の雌馬」は女性の力の蓄積を象徴していた。後者はこのように両性具有的社会での男性の力の損失と同等視され、去勢不安のシンボルと考えられていた。
ウパニシャドでは、(800?600 B.C.E.)火は男性的な元素と考えられていた。男性は、「火のペニス」と「火の精液」を「水の」洞穴である女性の膣に差し込んだ。(O'Flaherty、1982、55ページ)。 ここでも、女性は劣っていて有害であると位置づけられた。「太陽の方法」は再生からの解放に至り、「月の方法」 は望まれない化身へと至った。
1世紀(C.E.)になってさえ、Puranas(古いインドの神話のコレクション)は、火のようなエネルギーに、semen virile(男性の精液)を名前として使った。 しかしこの時点で、男性の種はその淡い色のために月に割り当てられ、一方月経の血が太陽エネルギーを表すべきであるという概念がすでに現れていた。 この考えは、ヒンズーと仏教の両者の形をもって、 タントラ教に編み込まれた。たとえば、「男性の精液は月を表し、女性の排血は太陽を意味し、したがってYogiは最大限の注意を持って太陽と月を彼自身の体に組み入れなければならない」とshivaiteテキストにある(O'Flaherty、1982、255ページ)。
ヒンズー神のシンボリックな道具であるシバも、太陽と月の性が180度転換する例を明らかにしている。 シバは冠として月を頭につけ、偉大な母の動物のシンボル上に取り付けられ(雄牛Nandi)、女神Kaliのように濃紺の肌を持っている。 彼(男性的な神) は、前文化的時代には女性的であると考えられていたエンブレムで装われている。宗教的な歴史において、太陽と月のシンボリックな再解釈は、彼の外観に効果を及ぼしている。しかしなぜ?
たとえヨガ行者がタントラ儀式の後に宇宙的な支配を発揮するにせよ、宇宙に女性的性質が与えられた時から、両性具有的タントラ教は女性支配の宗教的な概念に深く根ざしているに違いない事を、我々は何回にもわたって示してきた。これは、男性の種子が月と象徴的に結ばれている理由でありえた。全てのタントラのイニシエーションのプロセスが動きだす以前には、伝統的な女性に対する支配力への両性具有的な要求が、こういった関係としてすでに表されている。男性の精液はすべての男性的な物質の中で最高のもので、両性を超える全能を示すために女性の外観で現れる。シバは月の女神のすべてのエネルギーを彼自身の中に集積したことを示すために月冠をかぶり、彼は月(そして女性の)の指揮官にな
る。
当然我々は、semen feminile(女性形の精液)と女神の月経血に何が起こるかを、我々自身に尋ねなければならない。左右対称の理由で、これらのシンボルは太陽と火に割り当てられる。しかしこの文化的な異常な広がりを通して、現在の女性は前男性的な太陽の原理の力とパワーを吸収しているのだろうか?そんな事は少しもない? インドの前文化的な時代には「男性的な太陽」と「男性的な火」は肯定的な性格をもって特徴づけていたが、タントラにおいて、 「女性の太陽」と「女性の火」は、そんな特徴は明らかに与えられていない。Kalachakraタントラでは、 そらはもはや、輝き、暖かく、理性的で、創造的なものではなく、対照的に致命的な熱さ、放火癖を持つもの、炎を上げる破壊的な熱狂、すべてのレベル上での不合理などと表現されている。ヨガ行者はこれらの否定的な女性の火のエネルギーに巧みに対処する方法を理解し、彼の粗い体と宇宙を焼き尽くすためにそれらを完全に利用するが、それによってそれらが肯定的なものに変容するわけではない。一方タントラマスターは、炎をあげる破壊の冒険を「純粋な精神」として生き残り、彼の人体は滅びるが、 最終的に彼の「内部の火の女性」(自主的な女性の原理)が、彼女自身を焼き尽くし、タントラの動きから永久に消えさる。我々はcandaliの破滅的な火と、ブッダの力の重要な男性的象徴としての火の区別を示さなければならないように、破壊的な女性太陽と創造的な男性太陽を区別しなければならない。
The ADI BUDDHA (Kalachakra master) as the androgynous arch-sun
中性的な第一の太陽としてのADI BUDDHA(Kalachakraマスター)
ブッダのイメージと太陽と火のメタファーの関連は、月と水のシンボルへの彼の繋がりとは対照的に浸透し、初期仏教でもすでに証言されている。ブッダの父Suddhodanaは、「太陽王朝」の系統を引いて、 「太陽の民族」のメンバーとされていた。彼の太陽からの降臨の印として、彼の息子は足の裏に、1000の放射された車輪または「鉤状の十字」(鉤十字は、古代の太陽シンボル)といった太陽のイメージを持っていた。太陽-車輪は、彼の「スピリチュアルな」王座の背を飾っている。
すべての文化において、ライオンは一段と優れたものとして「太陽の動物」を代表している;これは、 仏教にとっても事実となっている。有名な伝説によると、Shakyamuniゴータマブッダは、彼の母の体から生まれでると、ライオンのようにうなりをあげた。 その時以来、彼は「Shakyaの家のライオン」と呼ばれていた。若かりしゴータマが悟りへの道をたどるために彼の宮殿から逃げたあとも、「ライオンのような声の」うなりをあげた:「生死のより遠い岸を見るまで、私は二度とこの街に決して足を踏み入れない...「(Joseph Campbell、1973、265ページ)。この力強い「ライオンのような声」を聞いたとき、神はさぞ喜んだであろう。Joseph Campbell(神話の研究者)は、 世界史のこの重要な瞬間について以下のようにコメントしている:「人類のより大きな部分となる文明を形づくる冒険が始まった。ライオンのうなり、太陽の精神の音、心の純粋な光の原理、それ自身の力を恐れることなく、これらは星の夜に出現した。そして、太陽が昇るようにその光線が送り出され、夜の恐れと狂気を追い散らす:ライオンがうなり声をあげ、豊かな草原の向こうの動物に警告を発し、それを恐れた驚くほど美しいガゼルを追い散らすように:このようにライオンの怒号は、やって来た人に光のライオンがやって来るという警告を発してい た。」 (ジョーゼフキャンベル、 1962、265)
あとに続いた大乗仏教とタントラ教の後期両方においても、ブッダのこの太陽の神格化は厳しく維持され、また拡大されさえした。太陽の比喩が、 Kalachakraタントラの中心に置かれた。時間神は「太陽のような体」を持つという(Newman,、1987、pp. 225、 326)。特にKalachakraは、「daymaker日をつくりだす太陽」(Newman,、1987、243ページ)としばしば言われている。彼は「360の太陽日」(Newman,、1987、454ページ)の支配者で、「vajraのライオン王座」に座る。 彼の信者は、「Sakyasの見事なライオン」(Newman,、 1987、243ページ)として、彼を崇拝する。時間タントラの解説において「Kalachakraは太陽として全部で3つ世界にあり、それは時間のイメージである」 (Banerjee、1959、133ページ)とある。
ブッダの持つ宇宙の王にふさわしい力が示される必要がある時には、タントラ教において、太陽のシンボルはスポットライトの外に後ずさりする。月のイメージは、ヨガ行者の神秘的な身体においてとても重要であるが、全く同じテキトにおいては脇役をつとめるか、しばしば否定性の象徴とされている。 Kalachakra研究者Gunter Gronboldは、歴史上のブッダの「太陽の」降臨を、月の球面とまさに正反対のものとして置いている:「太陽の王朝は純粋な光の原則を支持している。太陽の光は純粋である。月の光は対照的に暗闇を分け持っている。さらに、太陽の光は永遠であり、一方月はそれ自身の暗闇へ反撃しようと満ち欠けし、死を免れないと同時に不滅である」(Gronbold、1969、38ページ)。このように突然の「太陽崇拝」が、タントラ生理学の論理に十分に一致することはないし、男性的な原理が月によって、 そして女性的な原理は太陽によって表されているという事が、Kalachakraタントラの解説者達によって明らかだ。したがって、男性時間神である太陽の優勢におくために、時間女神(Vishvamata)はおとしめられたことに疑いがなく、タントラの体の理解では、 Vishvamataは以下のような太陽の性質を備えている: 彼女は、「太陽自体でなく、毎日の太陽のサイクル[時間]の影響を表している」(Mullin、1991、273ページ)。彼女はこのように、ADI BUDDHAの「強い男性的な太陽」によっておおわれる「小さな女性の太陽」を象徴している。
基本的に、Kalachakraタントラにおいては、中性的なADIBUDDHAは、彼自身の中で火と水、太陽と月を結びつけると言うことができる ? しかし最終的な例において彼は、男性的な光の優越性を暗闇に示すために、 両性具有的な第一の太陽として称賛させられている。太陽のシンボルは、自然の太陽よりはるかに大きな範囲を占める。それ自体の範囲内に、宇宙のすべての光のメタファーを集積している。HerbertGuentherによる説明では、最も高位のブッダ(ADIBUDDHA)は、「まるで太陽の光が朱の海に落ちるように;まるで宇宙のすべての恒星の光沢が一つの太陽に集まるように;まるで金色の祭壇が空により高く高く上がっているように;...まるで宇宙のすべての恒星が一つの太陽になったように空をその光線で満たして」、(Guenther、1966、101ページ)。読者は、ADIBUDDHA(第一の太陽)は、秘技を受けたヨガ行者の神秘的な身体と同一であるという事実を決して見失ってはならない。
つづく
by mayufuru
| 2009-05-20 15:29