世界を支配する王 その27
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『ダライ・ラマの闇』
http://www.iivs.de/~iivs01311/SDLE/Contents.htm
yasuさん翻訳による7章の続きです。
7.カーラチャクラ:内部のプロセス
The “drop theory” as an expression of androgyny
両性具有の表現としての「滴の理論」
さまざまなタントラ(特にKalachakraタントラ)に記述されているような、破壊の後に続くヨガ行者の神秘的な身体内部の創造を調べてみよう。我々は「火の女性」(candali)がヨガ行者内部の頭頂に達し、そこでbodhicitta(精液)を溶かすことをみた。bodhicittaは水と月のシンボルに結びつけられている。candaliの上昇が「太陽の道(方法)」という名をともなう一方、その降下は「月の道(方法)」として知られている。bodhicittaはbinduとも呼ばれ、『点』『無』『ゼロ』『drop?滴』を意味する。教義によると、純粋な意識のすべての力がこの「滴」に集められ凝縮されて、その中に「小宇宙の原子力エネルギー」が集中される(Gr nbold、Asiatische Studien、33ページ)。
チャンネルとチャクラがcandaliの火によって浄化されたあと、bodhicittaはavadhuti(中央のチャンネル)を制限されることなく下り流れると同時に、「火の女性」の点けた火を消す。彼女は太陽、「精液のしずく」の役割となり、男性的な月、月の力は今や太陽の力を破壊する。しかしいつもの仏教タントラのシンボリックな反応の逆転により、「滴」の降下が、女神に対する神の勝利であるという事象の核心は何ら変わることはない。
精液はいろいろなハスのセンターで短い休止をとりながら少しずつ真ん中のチャンネルを流れ落ち、幸福の感覚をもってペニスの先端で停止する。これが引き起こす頂天の感覚は、「4つの喜び」として分類化された。 [2]
この降下する喜びは徐々に増加し、言いようのない喜びとともに終わりに達する:「通常の何百万も何百万もの[精液の]放出」 (Naropa、1994、74ページ)。Kalachakraタントラでは、精液の停留に起因する激しい喜びの感情の固定化は、「こぼれない喜び」または「最高の不動」と呼ばれる(Naropa、1994、304ページ、351)。
この「固定された幸せ」は、ヨガ行者が儀式の始めに行うパートナーとの「荒れ狂う」「野生の」セックスへの対極にある。「固定された」ものは「荒れ狂う」ものをコントロールするというのが、タントラ教義の要素である。ブッダやBodhisattvaは男性と女性エネルギーの和合(性的な融合)を、どんなに荒々しく活気があってもそれを傍観者として冷静にやり過ごした。タントラ図像の性的に興奮するカップルのイラストでは、必ずそれを傍観する第3の人物が蓮華座にあって、全的静けさの中でバランスをとっている。これは、通常エロチックな場面より上にある小さなブッダのことだ。彼は目立たないにもかかわらず、性的な魔法でコントロールしている?冷たくて、無関心で、穏やかで、打算的で、不思議な微笑みをうかべるのぞき屋だ。
激しい感情を起こさせるエクスタシーが名人の神秘的な身体で準備される必要があり、彼がその男性的な力を浪費しないと恐るべき地獄の罰が彼を待っている。「喜びの損失より大きな罪は存在しない」とKalachakraの解説にはある(Naropa、1994、73ページ、135)。Pundarikaも、時間タントラの解説で詳細にこの事を扱っている:「罪は、喜びの破壊に起因している...それから暗闇がやってきて、自身のバジュラ[陰茎]がうなだれ、精神的な混乱や、食べ物、飲酒などのささいなものに対する独占的な関心が続く」(Naropa、1994、73ページ)。つまりヨガ行者が性的な行為でオルガスムと射精を経験すると、その精神的な力を失う。
精液のしずくは「月の液体」を象徴しているので、ヨガ行者の数々のエネルギーセンターを通るその降下は月齢にも関連づけられる。頭頂の下でそれは新月として始まり、その最も明るい輝きに達するまで、段階ごとに落下し、ペニスで16の段階にわたって成長する。ヨガ行者はその想像力で輝く「満月」をそこに固定させる。
第2の対比される連鎖において、理論的には「満月の上昇」が行われる。名人にはもはや月が欠けていくことはない。彼がその種をもらさなかったため、月の豊かな輝きはそのまま完全に残っている。「もらさない喜び」は「満月」としてペニスで始まり、その完全な輝きをもはや失うことはないので、中央のチャンネルを通って登る月の滴は、降下よりずっと強い喜びにつながる。
その上昇の間、それは新たな「最高の幸福」を呼び出すために、すべてのチャクラで立ち止まる。ハスのセンターに残るこの歓喜の段階を通して、ヨガ行者は新しい神の体を作り、それを彼は「創造の体」と称する。「満月の滴」が 額にあるハスに達するときに、これは最初に成し遂げられる。
4つの喜びのセンターをあてもなくさまよううち、「滴」は時折「ダイヤモンド」の歌で応じるさまざまな女神に遭遇する。彼女らは若く、優しく、非常に美しく、親しみやすく、その身を捧げる用意をしている。candaliのたぎるような荒々しさと赤い怒りはいうまでもない!」美女は呼びかける、「あなたが私の生きる事を望むなら、ダイヤモンドの体、多くの存在を楽しませる回転する車輪、ブッダの利益と最高の啓蒙を明かす者、情熱をもって私を愛してください」。そのようなエロチックな誘惑は、女神のうちのひとりとの想像上の結合につながることもある。
いくつかのKalachakra解説は、名人の神秘的な身体の内の白い月の滴の上下のモデルを、男性のbodhicittaの勝利だけに限定している。最初の落ちていく段階において、それは火のようなcandaliを破壊し、彼女を空虚に導き、いわゆるbindu(滴)が『何もない事』を意味するので、消滅する力を制御をする。第二段階でその滴は、宇宙の建築用ブロックを形成し、後にヨガ行者の新しい身体がこれによって作られる。この見地からみれば、男性の精液と女性の精液の混合ではなく、男性の種だけの話になる。Naropaのカーラチャクラの解説では、創造を生み出すものは男性的な月であり、消滅をもたらすのは女性の太陽であるとはっきりと書かれている。 これを読んだ人は、candaliを消した後にはヨガ行者の身体の中に女性の要素が存在していないし、血というよりpermが彼の静脈に流れているという印象を持つに違いない。しかし、他のモデルもまた同様に存在する。
たとえばDaniel Cozortは、彼の現代タントラの研究における2つの基本的な滴について話している。一つは白く、男性的で、月のようであり、水のようで、頭頂の下に位置している; もう一方は赤く、女性的で、太陽のようで、火のようであり、性器のあたりにある(Cozort、1986、77ページ)。白い滴が額から、のど、心臓と臍を通ってペニスの先端へと流れるとき、「上からの4つの喜び」が呼び起こされる。「下からの4つの喜び」はこの逆になる。そのとき、赤い滴は脊柱の根元からハスセンターを通って上方へ流れる。合計21,600の男性の滴と、同じ数の女性の滴がヨギの体の中にはある。滴は喜びだけでなく空虚も生じるので、名人は21,600の幸福の瞬間を経験し、21,600の「彼の身体的な構成要素」を溶かすことになる。
2つの「滴の列」が名人のエネルギー体でつくられる時、このプロセスは最初に完成され、ひとつは上昇を始め、もうひとつは下がり始め、両方が段階を追って確立される。滴のこの移動が終わると、あらゆる啓蒙の印と特徴をもつ広大な空の体、宇宙の元素に対応する体が作られる。「それは触れる事はできず、非物質的で、地上の原子構造を何ら持たないので、それは澄んで輝いている」と初代ダライラマは書いている。
更なるバージョン(それはまた、時間タントラにあてはまる)が、我々のエネルギー体のいろいろな場所で見つかるゴマ程の大きさの「4」つの滴を紹介している。 [3] 複雑な練習を通して、ヨガ行者はこれら4つの原理的な滴を止め、神秘的な体の特定の場所に固定させる。
エネルギー体の解剖は、Lharampa Ngawang Dhargyeyによるカーラチャクラの解説においてはさらに複雑で、上の4つの滴に加え、ヨガ行者の心臓のもう一つの「破壊できない滴」を紹介している。この両性具有的なbinduは、上半分の「母の赤い種」と、下半分の「父の白い種」から成る。それはゴマの種のサイズで、「非常に繊細なエネルギー」の混合からなる。他のハスセンターも、このような「中性的」な滴を持っているが、それは様々な割合の混合で成り立っている。たとえば臍では、binduは白より赤い種を多く含み、額ではこの逆になる。瞑想エクササイズのうちの1つは、すべての滴を「破壊できない心臓の滴」に分解することにある。
幸運にも、我々の分析にとってタントラ生理学のさまざまな理論を持ち出す事は、さして重要ではない。それにもかかわらず、テキストの用語上の混乱のため、多数の解決できない矛盾が残されていて、一般には2つの基本的なモデルと関わっている。
最初に神のエネルギー体は、白く男性的なbodhicittaの助けを借りて創りだされ、candaliの形としての女性のエネルギーは、古い人体の破壊のみを補助する 。
第2のモデルにおいて、ヨガ行者は赤と白の両方、つまり女性的で男性的なbodhicitta要素から両性具有の体を創りだす。男性的で女性的な滴が、イニシエーションの前に名人のエネルギーシステムにすでにあるという仮定も存在する。ここでは、彼は最初からバイセクシャルの存在と考えられている。そうするとなぜ彼はタントラ儀式の中で、外部の女性や想像の女性を必要とするのだろう?女性の存在がなくても、彼自身の体にすでに存在する両性具有者(そして対応する滴)を起動させることが可能なのではないだろうか?しかしこれはおそらくできない。Sekkodeshaはその文章で、男性の精液で満たされたチャンネルを持つ男性(khagamukha)と、女性の精液で満たされたチャンネルを持つ女性(sankhini)があるといい、ヨガ行者は最初に赤いbodhicittaまたは赤い滴をカルマムドラー(本当の女性)から抜き取るので、彼の両性具有はこの練習の結果であって、自然の出発点からおこった事ではないという。
この見解はカーラチャクラタントラの別の一節にも支えられていが、それによると、sankhiniはヨガ行者の神秘的な身体の中央のチャンネルとされる。通常、月経の血はsankhiniの中を流れ、それは女性の下の右側チャンネルに見つかる。対照的に、性的な魔法のイニシエーション前のヨガ行者の身体においては「月経のチャンネル」が全く存在していない。このテキストがタントラマスターのavadhuti(中央のチャンネル)をsankhiniとして言及するときは、ムドラーの結合で赤い種を「吸収した」ことを意味するだけである。
このように、性的な魔法の儀式の前の名人の体には、赤いbodhicittaが完全に存在していないし、もしあるとしてもほんの少量だけと仮定するべきだ。そして彼は、女性から赤い万能薬を盗むことを強制される。
チベットのラマ教徒がその理論と実行の圧倒的優勢を確信しているにも関わらず、原則的にヒンズーと仏教技術の基本的な違いはない。両方のシステムは、ヨガ行者による女性エネルギーの吸収とミクロコスモス的/男性的/両性具有的/神的な体の生成に関している。詳細においては様々な違いがあるが、個々の仏教タントラをお互いと比較するときこれも真実なのだ。唯一の相反する教えは、包括的な「シャクティズム」で、「それは女神をすべての神より上に持ち上げる」(フォングラーゼナップ、1936、 125ページ)。
つづく
by mayufuru
| 2009-05-18 10:45